【新婦人しんぶん】120531*平和学習

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(新婦人しんぶん2012.5.31付)

海軍落下傘部隊の慰霊祭

恒例、安房神社の海軍落下傘部隊の慰霊祭が行われました。

1941年9月、精鋭1,500名が館山海軍航空隊に集結し、

上空300mからの降下訓練を3ヶ月行ない、

12月には台湾の嘉義航空隊で最終訓練の後、

翌年1月には横須賀第一特別陸戦隊(横一特)がセレベス島メナドへ、

2月には横須賀第三特別陸戦隊(横三特)がティモール島ク―パンへ

奇襲攻撃をかけ、占領に成功しています。

しかしその後の激戦のなかで、多くの方が命を落とし、

生き残ったのは200人といわれています。

その一人、貴重な証言をしてくださった版画家の秋山巌先生の長女、町田珠実さんが

毎年、お父上の代わりに、お父上のお仲間の慰霊のために、来訪されました。

秋山巌先生のご健康を心よりご祈念しております。

平塚らいてうの会

NPO平塚らいてうの会(米田佐代子代表)の皆さんが平和学習で来訪されました。

らいてうさんのお父さんが、館山市北条(六軒町)の諏訪神社裏に別荘をもっていました。

館山白百合幼稚園の創設者・島野初子(矢部初子)さんは、らいていさんのご友人だったご縁もあり、『新婦人の人びと』という本には紹介されており、著書の折井美耶子さんからご寄贈いただきました。ありがとうございます。

嘉納治五郎と安房高の柔道と水泳と野球

講堂館に行ってきました。

日本柔道の父、嘉納治五郎は

東京高等師範学校(現・筑波大学)の校長時代、

身体鍛錬は教育の基礎として、柔道を水泳を推奨し、

安房北条町(現・館山市)で水泳練習を始めました。

治五郎も毎年来房し、学生を激励しました。

日本で最初の第一回関東連合遊泳大会も、

鏡が浦(館山湾)で開催されました。

柔道八段、水府流太田派を極めた東京高師の師範・本多存(ありや)は、

地元の安房中学も指導し、カッパ中学と呼ばれる日本一に導きました。

だから、安房高には今でも、古式泳法部、水球部などが伝統なのですね。

本多師範の墓所は、北条の金台寺にあり、今も墓参者が絶えません。

嘉納治五郎の姉・勝子は、海軍水路部の軍人・柳楢悦(やなぎならよし)の三番目の妻で、

民芸運動で著名な柳宗悦の母です。

楢悦が亡くなった後、父代わりとなって治五郎は甥たちを育てます。

とくに、宗悦の弟・柳悦多(よしさわ)は、幼い頃から嘉納塾で柔道を仕込まれます。

楢悦が創設に関わった水産講習所(後の東京水産大学、現・東京海洋大学)で学んだ悦多は、

同所の実習場があった館山町で漁船2隻をもち、安房中学で柔道を野球を指導します。

治五郎も、明治期に伝来した野球を試みたけれど、あまり得意ではなかったようですが、

この甥との関係から、治五郎は安房中学で講演をしていたようです。

1923年9月1日、悦多が野球部で講演をしていた折、関東大震災が起きました。

生徒を逃がして命を守った後、悦多は校舎の下敷きとなり殉職しました。

これは、戦後の安房高で長く漢文教育をされた柳悦清(よしきよ)先生のお父上のことです。

柔道や水泳ばかりでなく、安房高の野球部が強いのも、こうした先人指導者のおかげなのですね。

深謝!

三重テレビの取材~船田正廣さんと《海の幸》

三重テレビ「欽ちゃんのニッポン元気化計画」の取材で、

レポーター兼カメラマンは、遠松未来さんが来訪されました。

今日の元気人は、彫刻家・船田正廣さん。

長野県上田市出身、東京芸術大学卒業、

千葉県立安房高校と安房南高校と安房西高校で美術教育をしながら、

制作活動に励んできた代表作は、安房西高校に展示されている刻画『海の幸』。

制作年は2004年。なんと、青木繁が『海の幸』を館山市布良で描いたのが1904年。

まるで導かれるように、ちょうど100年目にレリーフを制作されたのです。

館山では、青木繁《海の幸》誕生の家と記念碑を保存する会が発足しており、

船田先生はその役員です。

美術界では、青木繁が愛した地・布良は聖地と呼ばれ、

全国でも美術関係者の皆さんが、NPO青木繁「海の幸」会を立ち上げ、

青木繁が滞在した小谷家住宅の修理基金をつのる活動を展開中。

今年は、「青木繁《海の幸》オマージュ展」が東京銀座と館山で開催されます。