青木繁「海の幸」誕生と日露戦争の時代  1.これまでに書籍に記載される「通説や証言」をみる(1)青木の布良訪問の背景をさぐる 愛沢 伸雄

 青木繁「海の幸」誕生と日露戦争の時代                                                       

                                                                   愛沢伸雄(NPO法人安房文化遺産フォーラム代表) 

1.これまで書籍に記載される「通説や証言」をみる
(1)青木らの布良訪問の背景をさぐる
① 「福田たね」が後年に語ったこと(1961(昭和36)年6月19日談話・抜粋)

● 調査ポイント(「福田証言」とする)
a.小谷家が「4人家族」と「使用人4名」。おじいさんが亡くなった直後か。
b.「旅館(吉野屋)」に一泊。
c.森田か坂本かの知り合いの「田村という医師」を通じて小谷喜録宅に。

② 「なぜ青木らは布良に行ったか」
通説では、高島宇朗の母方の叔父「大倉正愛」とその友人「庄野宗之助」がたびたび布良に写生旅行していたことで、高島は布良を紹介され訪問している。その際に大倉が定宿にしていた「柏屋」に高島も泊まった。そこで青木に布良の良さを伝えて、「柏屋」を紹介したとなっている。
※ 青木繁(20歳)の友人である高島宇朗が『せゝらぎ集』(文明堂1902(明治35)年6月)出版したが、布良を題材にした詩が掲載(「布良告別歌」「鏡浦告別歌」など)

A.河北倫明が高島宇朗に直接、取材して執筆した『青木繁 生涯と芸術品』(養徳社1948(昭和23)年)と高島宇朗『新美術』第1号(1941(昭和16)年9月)では。(美術研究作品資料第3冊 青木繁《海の幸》田中淳「《海の幸》誕生まで」
「布良に、青木を紹介した由来をおもふと、宇朗に布良を教へた二人、母方の故叔父大倉正愛氏、友人庄野宗之助氏を挙げざるを得ない。故叔父は、創立時の太平洋画会員で、度度、宮内省御買上の光栄に浴した、海好きの、よく出かけた三浦三崎が要塞地帯になり、布良に場がへした、布良草分けの一人とも云ふべき、謹厳にして温厚なる君子人。庄野氏も、青年の、同会員で、後に、叔父と布良に同行した人。
宇朗は、この二人から、布良の話、人情の淳朴、黒潮海洋の豪宕など、沢山に聞かされて、胸を躍らい、まだ、汽車は無かった頃の、霊岸島から、定期船に乗って往って、二度ほど、布良に滞在した。正愛叔父は、定宿の柏屋一家から、非常な尊敬を受けて居たし、つながる宇朗も、多少の親しみと、信用とを得て来たので。
また、宿の親戚、郵便局長の川上氏の息子に、たのまれて、英語の手ほどきをしてやった縁などあり。青木が布良に行く時には、そこで唯一軒の旅館であった此の柏屋と、隣の川上氏とに、情を尽して、紹介依頼の手紙を、ことづけたが。
この親切な柏屋で、青木等に、小谷某の家の間借りの周旋をしてくれたのだ。
布良に就いて、語りたいことは、いくらもいくらもあるけれど、ここらで止めるが。」

● 調査ポイント(「高島証言」とする)
a. 「三浦三崎が要塞地帯となり、布良に場がへした」
b. 大倉とその友人庄野と布良に写生旅行。大倉の定宿「柏屋」
c. 郵便局長の「川上」と、その息子
d. 「柏屋」や「川上」とに依頼の手紙、「柏屋」が「小谷某の家の間借りの周旋」

B.森田恒友は東京美術学校1年生の写生旅行(1902(明治35)年)において房総に出向いた際に、布良にいったかもしれない。

「房総海岸」 年月不詳
※ 布良か根本ではないか

『森田恒友青年期素描集20歳~21歳』 昭和62年 限定700部
「森田恒友・廿歳の素描」森田恒之(恒友の孫)

 

 

 

 

 

 

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青木繁「海の幸」誕生と日露戦争の時代 愛沢 伸雄

 

 青木繁「海の幸」誕生と日露戦争の時代   

                                                                                              愛沢伸雄(NPO法人安房文化遺産フォーラム代表) 

   日本を代表する洋画「海の幸」は1904(明治37)年夏、40日余り小谷家に滞在した青木繁により描かれた。この画家は河北倫明氏をはじめ数多くの研究者によって世に出され、「海の幸」は日本美術史に位置付けられ国重要文化財となった。

石橋財団ブリジストン美術館蔵】

    ところで2005年から館山市富崎地区では、漁村のまちづくりのなかで小谷家住宅を市有形文化財とし、地元はもちろん全国からの支援により小谷家住宅修復事業に取組み、青木繁「海の幸」記念館として開館した。その経緯のなかで小谷家からは明治期の水産業など、地域の人びとの動きがわかる貴重な資料が発見された。

    これまで青木繁「海の幸」誕生について、明治期の館山・富崎の地を踏まえた地域史からの視点、あるいは日露戦争の時代のなかで小谷家に関連する人びとや漁村の文化的な交流の視点からの考察はあまり見かけない。つまり「海の幸」誕生の背景は、美術史的な視点や青木繁の関係者のみの証言で組み立てられてきた。

    この報告では発見された資料から青木繁が訪れた布良の地や小谷家に関連する人びとの姿、また「海軍望楼」などの軍事施設や「帝国水難救済会布良救難所」の設置、ときに軍事演習の地であった景勝地・布良の姿、とくに日露戦争下にあって布良沖のウラジオストク艦隊の動きによる危機的状況などを明らかにしたい。さらに富崎の人びととの交流にふれ、なぜ40日余りも小谷家に滞在し絵画制作が可能であったかを地域の視点から考察してみたい。

目次

1.これまでに書籍に記載される「通説や証言」をみる

  (1)青木の布良訪問の背景をさぐる (2)「海の幸」誕生の背景をみる

2.小​​谷家資料や国会図書館にある明治期の「布良」を紹介した資料

  (1)青木繁が訪れた景勝地・布良 (2)布良の医者

3.青木繁が滞在した小谷家をさぐる

  (1)小谷喜録とその家族  (2)石井家の人びと

4.日露戦争のなかの「布良海軍望楼」と「帝国水難救済会布良救難所」

  (1)東京湾要塞の最前線「布良」 (2)日露戦争勃発と要塞の地「布良」での動き

  (3)「帝国水難救済会布良救済所」と日露戦争

5.日露戦争時下の富崎の民衆と青木の姿

  (1)富崎・漁村の姿をみる  (2)漁村のまちをくみををみる

  (3)地域と青木繁から日露戦争を考える