青木繁「海の幸」誕生と日露戦争の時代  2.小谷家資料や国会図書館にある明治期の布良を紹介した資料 (1)青木繁が訪れた景勝地・布良 (2)布良の医者 愛沢 伸雄

 青木繁「海の幸」誕生と日露戦争の時代               

                                                          愛沢伸雄(NPO法人安房文化遺産フォーラム代表) 

2.  小​​谷家資料や国会図書館にある明治期の布良を紹介した資料

(1)青木繁が訪れた景勝地・布良

        〜明治大正期の主な地図案内記・写真集での「布良」

 

①  『安房國安房郡布良村々誌』 安房郡布良村 明治16年

    「里俗ノ古傳説ニ曰ク…天富命…布良浦ニ御渡海アツテ布良近傍ニ鎮定シ…土地大ニ開ケタリ命曰ク阿那此地ハ芽出浦ナリト布良ハ芽出浦ノ短辞ナリ故ニ地名ヲ名ノテ布良ト云ト云々又茲地ニ女神山ト云フアリ故ニ村名ヲ女良ト云神代系圖ニモ女良ト見ヘタリ云々 」

  • 「梅野宛書簡」a.の調査検討

 青木が書簡で女良書いたのはこの伝承を調べたか、小谷喜録から聞いた可能性がある。「万葉」とは、古代を表する言葉として表現上、使用したではないか。

② 『房州避暑案内』 旅人宿木村屋  山嵜房吉 明治25年

  • 「布良迄へ九十二三町布良崎神社眺望殊ニ佳絶ナリ同所ニ新設セラスレタル海軍望楼」とあるので、「海軍望楼」の設置については別項で検証する。

 ③ 『安房の冬』 木下藤次郎 明治27年 

      (「千葉市立美術館「木下藤次郎展」図録2014年」

大下藤次郎「安房の冬」明治27年0001

  • 調査ポイント

a.根本より布良方面に向かう記述のなかに、「山上に信号旗の建てるを見る 兼ねてきく布良の入口なり」

b.  「柏屋とか云ふ一軒の家あり…田舎の宿屋」と、「柏屋」の存在

c.  大下藤次郎という人物と布良。太平洋画会の創立者の一人で、明治期の水彩画運動の中心的なメンバーで、青木らと何らかの関係があったかと思われる。

◎【大下藤次郎】 1870年(明治3年)〜1911年(明治44年) 42歳没

 大下藤次郎は近代日本における水彩画のパイオニアといわれ、水彩画家をめざした第一歩が房総への写生旅行となる。その紀行が『海と山 西総地方の紀行』1893(明治26)年や『安房の冬』1894年(明治27年)年であり、布良の地も訪れ水彩画を描いている。

 大下藤次郎は三宅克巳や丸山晩霞らとともに、明治期の水彩画運動を牽引して、水彩画の普及活動のために『水彩畫の栞』(1901(明治34年)や雑誌『みづゑ』1905(明治38)年創刊などの出版に関わり、日露戦争から青少年に水彩画の大きなブームを呼び起こしていった。

【a.の調査】

   1894年(明治27年)1月16日から21日までの安房への写生旅行記で、その中に「山上の信号旗」との様子が記載され、「兼ねてきくところ」としているので、当時、根本や布良を訪れる画家文人たちの目印になっていたのか。なお、紀行文が書かれた「明治27年1月はまだ「布良海岸望楼」が開設されていないが、「仮設見張り所の中に信号旗」があったと思われる。

 1894(明治27)年1月は日清戦争前夜であり、当時清国海軍は最新鋭艦船を含め20余隻の「北洋艦隊」があった。海軍は、その攻撃力をもって東京湾に侵入されることを警戒していた。その背景のもので、1894(明治27)8月5日に布良に「海岸望楼」が設置された。(別項で報告)

【b.の調査】

   次項の資料で裏付けられた。

④ 『千葉県安房国全図』  石井錬治   明治35年10月(「館山市博」蔵)

明治35年安房地図・布良  

  • 調査ポイント

a. 民間の地図には「海軍望楼」の場所があり、裏面の「房州旅行案内」として、「布良岬」には、次のように記載されている。

 「富崎村布良の南端なる岬角にして伊豆の大島と相對峙す西に豆相の諸​​峯を眺め洲の崎平砂浦を控え前に有名な鬼ヶ浦鬼ヶ瀬あり最も眺望に富む此地も亦有名の水産場にしても常に船舶の往来絶ゆることなく鮪鮪の漁猟壮なり三十二年海嘯の為港内浸害せられたるも目下官に於て數万金支出し石造の堤塘工事中なるを以て近く成工に至らば本港の美観を呈すべし近年海保の為海軍望楼の設けあり又日本帝国水難救済會に於ても水難救護所の設けあり又郷社布良崎神社あり健脚を試む所たりとす」

1902(明治35)年10月に発行された「千葉県安房国全図」の裏面「房州旅行案内」の「布良岬」の記載で注目されるところは

(1) 「明治三十二年の海嘯」、つれて津波で布良港が被害を受け、現在、港を修復工事中で近く完成すること

(2)近年「海軍望楼」設置

(3)「帝国水難救済会の救難所」が設置。これらのことは青木らが布良訪問する際に「房州旅行案内」のような内容で聞いたかもしない。

 (1)の「明治三十二年」の地震津波は、1899年(明治32)年3月7日にあった「紀伊大和地震」(マグニチュード7.0)であり、フィリピン海プレート内の深さ40〜 50kmであった地震とされる。紀伊半島の尾鷲などで死者7名が、三重県を中心に近畿地方南部で被害があった。

 この地震の津波が布良海岸まで押し寄せ「布良港突堤」に被害があったとわかったが、『千葉県の自然誌〜本編千葉県の大地』「千葉県に被害を及ぼした歴史一覧」には、布良へ津波があって港突堤への被害があったという記載はない。

 なお、この突堤修築事業が県によって、すぐに実施された背景で推測されるのは、「布良海岸望楼」と横須賀水雷隊の寄港に関係していると思われるのである。この件は、別項で取り上げる。

神田家文書(「館山市博」蔵)に布良港突堤修復に関する事項があったのを紹介する。

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⑤ 『房州見物』  磯谷武一郎  大正6年

    「布良港は西方太平洋に開き荒磯にして繋舟すべからざれば。布良村民は六千餘百圓を投じて防波堤を築きしも明治三十二年十月海嘯の為渫はれて人家為めに其害を被れり。明治三十四年本縣會の決議に依り翌三十五年突堤長さ百二十四間經費二萬三百餘円を支出し築きしものなり。」

「又望楼の設けありて其信號旗は出船入船毎に高く掲げられる」

「望楼の下、崖頭百尺の道路より崖下百尺の沙上を見れば。幾多の黒團々が此の夏なる紅火を圍繞しつゝあるを見る。即ち是ぞ音に名高き房州の蜑女なりしよ。行き行きて巖角をめくれば茲外海の怒涛は人の心臓を鼓動せしむ。遥かに海上を隔てゝ伊豆七島を望み、西北に富嶽の雲に聳ゆるを見る真に天下無比の一奇觀なり」

 『敷島美観』  小泉墨城編 帝国地史編纂所 明治38年

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  •  日本を代表する景観として世界に発信(英文)する場所(千葉県6か所)として選ばれたのが布良であった。「布良の怒涛」というテーマで紹介されている。

⑦ 『房州みやげ』 鷲見剛亮 東京堂 明治45年

民業と生活

 房州は三面を控ゆる國柄で、漁業が尤も發達し、日本全國に渉り屈指の水産地として世間に承認されて居る。近海漁業に遠洋漁業にナカナカ盛ん…その漁業の収穫高許りでも、明治四十二年度の調べで…二百四十四萬三千五百五十六圓に上り、…民業の大體は漁農兼業の状態…數字を以て統計的に分類すると、漁五農三其他が二の割合である。…之を要するために歳入歳出等の総べてに於て、千葉縣下十二郡内で何れの方面から見ても…第一位を占めて居る…納税成績徴し、一般を通じて中産程度と断定しても差支へはなからう。物産は魚貝、海藻、米穀、蔬菜、果實、菽類、生糸、繭、牛馬、鶏卵、木材、石材、酒、醤油、薪炭、茶、白土、織物、畳表、茣蓙等が重なる者である。

人情と風俗

 人情は概して正直で従順であるだけ、夫れだけ保守の觀念に富み進取の氣象に乏しいやうで、従つて個人主義が行はれて自から町村割據の模様が取れないやうだ、風俗は頗ぶる質朴で奢侈の惡弊がなく勤勞の美習がある、警察署や、裁判所の事故の少きに徴しても、其等の大體を觀測する事ができる。畢竟するに氣候の影響と山光水色の自然感化もあらうが此の邊が大に研究一番の價値ある所…」

  • 当時、外部から安房の人びとがどのように見られていたかがわかる。著者は旅行ジャーナリストで、安房に縁があって20年ほど通っていると述べている。今日と比べても興味深い記述である。布良に来た青木らが、地域の人びとからどのように見られ、どう受け入れられたかを知るうえで、参考となるかもしれない。

⑧ 『楽土之房州夏季特別号房州案内』 大正12年 楽土社

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※大正12年の時点では富崎村の旅館は「富崎館▲吉野屋」と記載される。

(2) 布良の医師

〜「福田証言」と「高島証言」の検証

 ① 「福田証言」の「田村という医師」について

      〜「安房医師会誌」「会員の異動記録」

明治29年・36年・40年、43年の4回「富崎村布良  田村子明」とその記載あり。「明治44年5月〜大正9年2月異動」には「富崎村 田村子明  大2退会」とあるので、1896年(明治29年)から1913年(大正2年)まで冨崎村布良で医院を開業していた。住所は布良1290番地で、布良崎神社の隣であり、小谷家とも近い。なお、内務省衛生局「日本医籍」(明治22年)忠愛社には、安房郡21名の中に「布良村 田村子明」とある。

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② 「高島証言」の「郵便局長の川上」とは

 「…宿の親戚、郵便局長の川上氏の息子に、たのまれて、英語の手ほどきをしてやった縁などあり。青木が布良に行く時には、そこで唯一の旅館であった此の柏屋と、隣の川上氏とは、情を尽して、紹介依頼の手紙を、ことづけたが。 …」

 当時、1880年(明治13年)に布良郵便局に設置されると、「神田辰太郎」は取扱役になるとともに局長となり30余年郵便局にあった。ゆえに郵便局長としての「川上」はいない。柏屋の隣は郵便局である、実は「川上」宅も存在した。高島が布良に来たときの「川上」であれば、漢方医「川上恭順」宅であり、医者はやめて村政に関わって、1889(明治22)年には小谷治助ともに布良区会議員になっている。「高島証言」は、この人物の息子と思われる。

 川上家は小谷家と親しく、青木らを小谷喜録に紹介したことは考えられる。現在の小谷栄の妻としが母ゆきから伝えられていることは、恭順の息子恭三を「川上のおじさん」と呼んで親しい関係であったという。現在、富崎地区には川上家がないので、家系は絶えたかもしれない。最近、布良の墓地から川上恭三が建立した「七代恭順」(大正4年没)の墓石を発見した。明治初期の「医術営業仮鑑札交付人名表』(明治9年)には、「布良村 川上恭順」とあるものの、その後、医者である証明である鑑札を更新しなかったようだ。

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特別展「村の医者どん」 図録 (館山市博蔵)

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青木繁「海の幸」誕生と日露戦争の時代  1.これまでに書籍に記載される「通説や証言」をみる (2)『海の幸』誕生の背景をみる      愛沢伸雄

 青木繁「海の幸」誕生と日露戦争の時代               

                                                       愛沢伸雄(NPO法人安房文化遺産フォーラム代表) 

1.これまでに書籍に記載される「通説や証言」をみる

(2) 『海の幸』誕生の背景をみる

①  制作などの経過

1904(明治37)年

7月4日   東京美術学校西洋画科選科卒業

15日      夜、坂本繁二郎・森田恒友・福田たねと霊巌島から乗船

16日      朝、館山に到着

17日  布良に着き、「柏屋」か、「吉野屋」に一泊

「柏屋」か、「田村医師」か、「川上」かの紹介で小谷喜録方へ

※ 8月22日友人「梅野満雄」宛に書簡を出す。(『海の幸』制作を示唆する)

≪「梅野満雄」宛に書簡≫

其後ハ、御無沙汰失礼候 モー此処に来て一ヶ月余になる、この残暑に健康はどうか。僕は海水浴で黒んぼーだよ、定めて君は知つて居られるであらうがこゝは万葉にある「女良」だ。すく近所に安房神社といふがある、官幣大社で、天豊美命をまつつたものだ、何しろ沖は黒潮の流を受けた激しい崎で上古に伝はらない人間の歴史の破片が埋められて居たに相違ない、

 漁場として有名な荒っぽい処だ、冬になると四十里も五十里も黒潮の流れを切つて二月も沖に暮らして漁するそうだよ、

西の方の浜伝ひの隣に相の浜といふ処がある、詩的な名ではないか、其次ハ平沙浦(へイザウラ)、其次は伊藤のハナ、其次ノ、洲の崎でこゝは相州の三浦半島と遥かに対して東京湾の口を扼して居るのだ、

上図はアイドといふ処で直ぐ近所だ、好い処で僕等の海水浴場だよ、

上図が平沙浦。先きに見ゆるのが洲の崎だ、 富士も見ゆる 、 …(略)…

沖では、クヂラ、ヒラウヲ、カジキ 「ハイホのこと」、マグロ、フカ、キワダ、サメ、 がとれる、皆二十貫から百貫目位のもので釣るのだ、恐ろしい様な荒つぽい事だ、灘では、トビ魚(アゴ)、カツオ、タイ、アジ、ヒラメ、サバ、抔だ、それから岸近くでは、小アジ、タカベ、クロダイ、カレイ、ボラ、抔だ、磯辺では、タコ(大いよ)、イセエビ、メチダイ、メジナ、抔だよ、 …(略)…

まだまだ其外に名も知らぬものが倍も三倍もある、また種族が同じで殊類なものもあるのだ、

今は少々製作中だ、大きい、モデルを澤山つかつて居る、いづれ東京に帰へつてから御覧に入れる迄は黙して居よう。

  • 調査ポイント(「梅野宛書簡」とする)

a. 「万葉にある「女良」だ」の女良になぜ「」がついているか。青木は布良を「女良」と呼ぶことをどこで知ったか。

b. 「洲の崎でこゝは相州の三浦半島と遥かに対して東京湾の口を扼して居る」との文脈は、軍事的要衝の地を指していることを暗示させる

c. 「漁場として有名な荒っぽい処だ」「クヂラ、ヒラウヲ、カジキ 「ハイホのこと」、マグロ、フカ、キワダ、サメ、 がとれる、皆二十貫から百貫目位のもので釣るのだ、恐ろしい様な荒つぽい事だ」と、布良の鮪はえ縄漁についての理解はどうであったか。

d. 「此処に来て一ヶ月余」とすると、記載は1904(明治37)年8月の中旬であり、22日に郵便局で出す。日露戦争の戦時下、布良郵便局では郵便検閲はどうだったか。

②  河北倫明「青木繁」論をみる

戦時中の世情のなかで美術史的な視点をもって調査研究して執筆

『青木繁―悲劇の生涯と芸術』角川新書(昭和39年)

「あとがき」には、戦時中に執筆した最初の著作を漢字やかなづかいは今風に改め、そのまま再録したとある。「昭和十九年で、戦時下のことであり、原稿をかいているとき、灯火管制が行われたり、空襲警報が鳴りひびいたりしたこともあった」

「明治三十六年、二十二歳…千駄木町六五桑垣方へうつった。…森田恒友と同宿している。森田の追想記には『此の時分時々庄野君、正宗君などが遊びに来た。』…この時代は、青木の窮乏も激しかったようで、都合がつかなくなっては、つぎつぎと移転をくりかえし、友人達を利用してはいろいろ高飛車に迷惑をかけたものであろう。すでに学資の来るあてもなくなっていた」ということで、河北は久保貞次郎が『みずゑ』で友人石川確治(明治38年東京美校彫刻本科卒)の談として、青木が「文房具売り出しの一枚三十銭かのエハガキ絵までわずかな料金でかかねばならなかった」との記載を紹介している。「君の学資の絶えてゐることも余程後に知つた位である。苦学といつても…他所の仕事を助けたりなどしたといふではない、…何うして居たかは判らないが何うにかなつて行つたのである」(画集追想記) 「…生活の模様に着いて…梅野満雄の回想記…『此の三十五、六年の二年間は青木君が窮迫の絶頂と言ふ可きで、自分は当時の青木君を追想する毎によくも身体が……と考へずには居られない。…当時の日記に『君が生命の糧であつた』と書いてゐる。…学校から授業料の滞納処分を受けて退学の憂目を見ようとしたので自分は新潟行の旅費を割いた。…青木君は、此の困窮の中に勉強も随分やつて居た。…生活の為に外人向の水彩画も描き、…この年(明治36年)の白馬会第八回展覧会は、…青木は初めて作品を公表…水彩あるいは色鉛筆によって自由な空想を絵にしたものである。貧困のためやむを得ず小品に甘んじた…白馬賞の第一回受賞者となり、青木の異才ははじめて世に知られるに至った。…当時読売新聞の日曜評論で坂井義三郎がこの会を概評し…『超自然の事に手を付けようとする人のあるのは喜ばしい。』(読売新聞十月十日)

「曙時代 明治三十六年~明治三十七年 青木が…稀有の創作力を発揮したのは、明治三十六年末から翌年の初秋ごろにいたるほぼ一年たらずの時期であるが、この時代の作品は…例の「海の幸」を頂点とする一連の作品が出たのである…第一回の白馬賞をうけて華やかな注視の中に世に出た…、一方には福田たねとの激しい恋愛も始まっていた。三十七年二月はすでに日露の戦いが起こっていたが、つぎつぎと捷報はつたえられ、画学生たちの夢も昂揚期の影をうつして健康な浪漫的なものであったと感じられる。坂本、正宗の追想記…『一番無邪気に遊んだのはその頃であつたろう、…君と不同舎に居たさる女性との間に恋が成立したのもこの頃…君は自分にその女性をもらはうと思ふが何うかといふやうなことを語つた。それ以来君と某君とは繁々往来した。…その時分の君の風采は一通りではなかった。汚れて肩のあたりは破れて、汗臭いただの一枚びらの着物に、ずたずたになつた絹袴をつけて、いつも絵具箱をかついで歩いて居た』(坂本繁二郎、画集追想記)

…青木は、戦争もたけなわ明治三十七年七月四日には、東京美術学校西洋画科選科を卒業……式で来賓の大久保文部大臣は、「振古未曾有の時局」に際して卒業する一同を激励している。…こうして学校を卒業した青木には、いよいよ憚かるところなく自由に大胆に画想をのべるときがきた。…房州布良へ写生に出かけて…この写生旅行はいろいろな意味で青木の生涯の一つの大きな峠となった…一漁村に、自分を崇拝する女性や親しい友人と行をともにした青木が、どれほど張りきった状態にあったか…」

  • 調査ポイント(「河北」調査研究とする)

a. 千駄木時代に同宿した森田は「庄野君」が時々遊びに来たという。「大倉と庄野」に関わる「高島証言」には、「庄野」と青木・森田が知り合いであったという話がない。庄野宗之助は太平洋画会のメンバーであり、森田と交流があったうえに、青木とも1903(明治36)年頃の千駄木の下宿で森田に紹介され、交流が生まれた。すでに布良に写生旅行にいったことのある庄野や森田らは、青木が求めるイメージをもつ場所と紹介した可能性がある。

b. 梅野によれば青木が親からの学資送金があったのは、1899(明治33)~1901(明治34)年の1年4ヶ月という。1902~03(明治35~36)年の「窮乏」の時代は、梅野や森田などの仲間以外に、その窮乏を支援していた人がいたのか。考えられるのは、キリスト教会関係者などである。後に青木は千駄ヶ谷にあったセブンデーアドベンチストの教会で、フイルドという牧師から洗礼をうけたという。梅野満雄宛の書簡には「過日、僕はクリスチャンの洗禮を受けた」とある。(「美術研究作品資料第3冊 青木繁《海の幸》」のなかの「青木繁年表(植野建造遍)」『青木繁全文集 仮象の想像』の梅野宛書簡(明治40年7月2日付)

③青木繁の関係者の証言

A.坂本繁二郎

坂本繁二郎は「自分の目撃談」を青木に話したことが制作のきっかけであったと証言。

『私の絵 私のこころ』1969(昭和44)年 日本経済新聞社

「…明治三十七年の夏、私は青木と彼の愛人である女画学生福田たね、それに森田恒友の四人で千葉県の布良海岸に写生旅行に出かけました。黒潮と太陽とはてしない水平線に圧倒きれながらも私たちの心は躍動したものです。青木には、秋の白馬会展を目ざして、日本の古典からヒントを得た「海の幸」「山の幸」の二部作をものにする野心が初めからあったようです。

あるナギの午後、私は近くの海岸で壮大なシーンに出会いました。年に一、 二度、あるかなしゃの大漁とかで船十余隻が帰りつくや、浜辺は老いも若きも女も子供も、豊漁の喜びに叫ぴ合い、夏の目ざしのなか、懸命の水揚げです。…夜、青木にその光景を伝えますと、青木の目は異様に輝き、そこに「海の幸」の構想をまとめたのでしょう。翌朝からは大騒ぎのうちに制作が始まりました。他の三人はもっぱら手伝い役。こちらの迷惑などはお構いなしで、モデルの世話だ、画材の買い入れだと追い回されました。青木独特の集中力、はなやかな虚構の才には改めて驚かされましたが、 あの「海の幸」は絵としていかに興味をそそるものとしても、真実ではありません。大漁陸揚げの光景は、青木君は全く見ていないはずです。現実に情景がまるで異なり、人も浜も海も実感とは違っています。彼は私の話を聞き空想で描いたのです。実際は船から降ろす小魚は女子供がざるに受け、大魚はわたを捨てたのを、血をしたたらせながら背に荷うのです。 すさまじいばかりの色彩と動の世界がそこにあったのです。青木がそれをじかに見ていたら、もっと絵は違ったものになっていたでしょう。

  • 調査ポイント(「坂本」証言とする)

a. 「海の幸」「山の幸」の二部作をものにする野心が初めからあった」意味は。

b. 「年に一、 二度、あるかなしゃの大漁とかで船十余隻」と小谷家