青木繁「海の幸」誕生と日露戦争の時代  1.これまでに書籍に記載される「通説や証言」をみる (2)『海の幸』誕生の背景をみる 愛沢 伸雄

 青木繁「海の幸」誕生と日露戦争の時代                                                                   

                                                                愛沢伸雄(NPO法人安房文化遺産フォーラム代表) 

(2)『海の幸』誕生の背景をみる

① 制作などの経過

1904(明治37)年

7月4日   東京美術学校西洋画科選科卒業

15日      夜、坂本繁二郎・森田恒友・福田たねと霊巌島から乗船

16日      朝、館山に到着

17日  布良に着き、「柏屋」か、「吉野屋」に一泊

「柏屋」か、「田村医師」か、「川上」かの紹介で小谷喜録方へ

※ 8月22日友人「梅野満雄」宛に書簡を出す。(『海の幸』制作を示唆する)

  • 「梅野満雄」宛に書簡

其後ハ、御無沙汰失礼候 モー此処に来て一ヶ月余になる、この残暑に健康はどうか。僕は海水浴で黒んぼーだよ、定めて君は知つて居られるであらうがこゝは万葉にある「女良」だ。すく近所に安房神社といふがある、官幣大社で、天豊美命をまつつたものだ、何しろ沖は黒潮の流を受けた激しい崎で上古に伝はらない人間の歴史の破片が埋められて居たに相違ない、

漁場として有名な荒っぽい処だ、冬になると四十里も五十里も黒潮の流れを切つて二月も沖に暮らして漁するそうだよ、

西の方の浜伝ひの隣に相の浜といふ処がある、詩的な名ではないか、其次ハ平沙浦(へイザウラ)、其次は伊藤のハナ、其次ノ、洲の崎でこゝは相州の三浦半島と遥かに対して東京湾の口を扼して居るのだ、

上図はアイドといふ処で直ぐ近所だ、好い処で僕等の海水浴場だよ、

上図が平沙浦。先きに見ゆるのが洲の崎だ、 富士も見ゆる 、 …(略)…

沖では、クヂラ、ヒラウヲ、カジキ 「ハイホのこと」、マグロ、フカ、キワダ、サメ、 がとれる、皆二十貫から百貫目位のもので釣るのだ、恐ろしい様な荒つぽい事だ、灘では、トビ魚(アゴ)、カツオ、タイ、アジ、ヒラメ、サバ、抔だ、それから岸近くでは、小アジ、タカベ、クロダイ、カレイ、ボラ、抔だ、磯辺では、タコ(大いよ)、イセエビ、メチダイ、メジナ、抔だよ、 …(略)…

まだまだ其外に名も知らぬものが倍も三倍もある、また種族が同じで殊類なものもあるのだ、

今は少々製作中だ、大きい、モデルを澤山つかつて居る、いづれ東京に帰へつてから御覧に入れる迄は黙して居よう。

 

  • 調査ポイント(「梅野宛書簡」とする)

a.「万葉にある「女良」だ」の女良になぜ「」がついているか。青木は布良を「女良」と呼ぶことを知ったか。

b.「洲の崎でこゝは相州の三浦半島と遥かに対して東京湾の口を扼して居る」との文脈は、軍事的要衝の地を指していることを暗示させる

c.「漁場として有名な荒っぽい処だ」「クヂラ、ヒラウヲ、カジキ 「ハイホのこと」、マグロ、フカ、キワダ、サメ、 がとれる、皆二十貫から百貫目位のもので釣るのだ、恐ろしい様な荒つぽい事だ」と布良の鮪はえ縄漁についての理解は。

d.「此処に来て一ヶ月余」とすると、記載は1904(明治37)年8月の中旬であり、22日に郵便局で出す。日露戦時下の郵便検閲はどうだったか。

 

② 河北倫明「青木繁」論をみる

戦時中の世情のなかで美術史的な視点をもって調査研究して執筆

『青木繁―悲劇の生涯と芸術』角川新書(昭和39年)

「あとがき」には、戦時中に執筆した最初の著作を漢字やかなづかいは今風に改め、そのまま再録したとある。「昭和十九年で、戦時下のことであり、原稿をかいているとき、灯火管制が行われたり、空襲警報が鳴りひびいたりしたこともあった」

「明治三十六年、二十二歳…千駄木町六五桑垣方へうつった。…森田恒友と同宿している。森田の追想記には『此の時分時々庄野君、正宗君などが遊びに来た。』…この時代は、青木の窮乏も激しかったようで、都合がつかなくなっては、つぎつぎと移転をくりかえし、友人達を利用してはいろいろ高飛車に迷惑をかけたものであろう。すでに学資の来るあてもなくなっていた」ということで、河北は久保貞次郎が『みずゑ』で友人石川確治(明治38年東京美校彫刻本科卒)の談として、青木が「文房具売り出しの一枚三十銭かのエハガキ絵までわずかな料金でかかねばならなかった」との記載を紹介している。「君の学資の絶えてゐることも余程後に知つた位である。苦学といつても…他所の仕事を助けたりなどしたといふではない、…何うして居たかは判らないが何うにかなつて行つたのである」(画集追想記)「…生活の模様に着いて…梅野満雄の回想記…『此の三十五、六年の二年間は青木君が窮迫の絶頂と言ふ可きで、自分は当時の青木君を追想する毎によくも身体が……と考へずには居られない。…当時の日記に『君が生命の糧であつた』と書いてゐる。…学校から授業料の滞納処分を受けて退学の憂目を見ようとしたので自分は新潟行の旅費を割いた。…青木君は、此の困窮の中に勉強も随分やつて居た。…生活の為に外人向の水彩画も描き、…この年(明治36年)の白馬会第八回展覧会は、…青木は初めて作品を公表…水彩あるいは色鉛筆によって自由な空想を絵にしたものである。貧困のためやむを得ず小品に甘んじた…白馬賞の第一回受賞者となり、青木の異才ははじめて世に知られるに至った。…当時読売新聞の日曜評論で坂井義三郎がこの会を概評し…『超自然の事に手を付けようとする人のあるのは喜ばしい。』(読売新聞十月十日)

「曙時代 明治三十六年~明治三十七年 青木が…稀有の創作力を発揮したのは、明治三十六年末から翌年の初秋ごろにいたるほぼ一年たらずの時期であるが、この時代の作品は…例の「海の幸」を頂点とする一連の作品が出たのである…第一回の白馬賞をうけて華やかな注視の中に世に出た…、一方には福田たねとの激しい恋愛も始まっていた。三十七年二月はすでに日露の戦いが起こっていたが、つぎつぎと捷報はつたえられ、画学生たちの夢も昂揚期の影をうつして健康な浪漫的なものであったと感じられる。坂本、正宗の追想記…『一番無邪気に遊んだのはその頃であつたろう、…君と不同舎に居たさる女性との間に恋が成立したのもこの頃…君は自分にその女性をもらはうと思ふが何うかといふやうなことを語つた。それ以来君と某君とは繁々往来した。…その時分の君の風采は一通りではなかった。汚れて肩のあたりは破れて、汗臭いただの一枚びらの着物に、ずたずたになつた絹袴をつけて、いつも絵具箱をかついで歩いて居た』(坂本繁二郎、画集追想記)

…青木は、戦争もたけなわ明治三十七年七月四日には、東京美術学校西洋画科選科を卒業…式で来賓の大久保文部大臣は、「振古未曾有の時局」に際して卒業する一同を激励している。…こうして学校を卒業した青木には、いよいよ憚かるところなく自由に大胆に画想をのべるときがきた。…房州布良へ写生に出かけて…この写生旅行はいろいろな意味で青木の生涯の一つの大きな峠となった…一漁村に、自分を崇拝する女性や親しい友人と行をともにした青木が、どれほど張りきった状態にあったか…」

  • 調査ポイント(「河北」調査研究とする)

a.千駄木時代に同宿した森田は「庄野君」が時々遊びに来たという。「大倉と庄野」に関わる「高島証言」には、「庄野」と青木・森田が知り合いであったという話がない。庄野宗之助は太平洋画会のメンバーであり、森田と交流があったうえに、青木とも1903(明治36)年頃の千駄木の下宿で森田に紹介され、交流が生まれた。すでに布良に写生旅行にいったことのある庄野や森田らは、青木が求めるイメージをもつ場所と紹介した可能性がある。

b.梅野によれば青木が親からの学資送金があったのは、1899(明治33)~1901(明治34)年の1年4ヶ月という。1902~03(明治35~36)年の「窮乏」の時代は、梅野や森田などの仲間以外に、その窮乏を支援していた人がいたのか。考えられるのは、キリスト教会関係者などである。後に青木は千駄ヶ谷にあったセブンデーアドベンチストの教会で、フイルドという牧師から洗礼をうけたという。梅野満雄宛の書簡には「過日、僕はクリスチャンの洗禮を受けた」とある。(「美術研究作品資料第3冊 青木繁《海の幸》」のなかの「青木繁年表(植野建造遍)」『青木繁全文集 仮象の想像』の梅野宛書簡(明治40年7月2日付)

③青木繁の関係者の証言

A.坂本繁二郎

坂本繁二郎は「自分の目撃談」を青木に話したことが制作のきっかけであったと証言。

『私の絵 私のこころ』1969(昭和44)年 日本経済新聞社

「…明治三十七年の夏、私は青木と彼の愛人である女画学生福田たね、それに森田恒友の四人で千葉県の布良海岸に写生旅行に出かけました。黒潮と太陽とはてしない水平線に圧倒きれながらも私たちの心は躍動したものです。青木には、秋の白馬会展を目ざして、日本の古典からヒントを得た「海の幸」「山の幸」の二部作をものにする野心が初めからあったようです。

あるナギの午後、私は近くの海岸で壮大なシーンに出会いました。年に一、 二度、あるかなしゃの大漁とかで船十余隻が帰りつくや、浜辺は老いも若きも女も子供も、豊漁の喜びに叫ぴ合い、夏の目ざしのなか、懸命の水揚げです。…夜、青木にその光景を伝えますと、青木の目は異様に輝き、そこに「海の幸」の構想をまとめたのでしょう。翌朝からは大騒ぎのうちに制作が始まりました。他の三人はもっぱら手伝い役。こちらの迷惑などはお構いなしで、モデルの世話だ、画材の買い入れだと追い回されました。青木独特の集中力、はなやかな虚構の才には改めて驚かされましたが、 あの「海の幸」は絵としていかに興味をそそるものとしても、真実ではありません。大漁陸揚げの光景は、青木君は全く見ていないはずです。現実に情景がまるで異なり、人も浜も海も実感とは違っています。彼は私の話を聞き空想で描いたのです。実際は船から降ろす小魚は女子供がざるに受け、大魚はわたを捨てたのを、血をしたたらせながら背に荷うのです。 すさまじいばかりの色彩と動の世界がそこにあったのです。青木がそれをじかに見ていたら、もっと絵は違ったものになっていたでしょう。

  • 調査ポイント(「坂本」証言とする)

a.「海の幸」「山の幸」の二部作をものにする野心が初めからあった」意味は。

b.「年に一、 二度、あるかなしゃの大漁とかで船十余隻」と小谷家

 

 

 

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