青木繁「海の幸」誕生と日露戦争の時代  4.日露戦争のなかの布良の「海軍望楼」と「帝国水難救済会布良救難所」   (2) 日露戦争勃発と要衝の地「布良」での動き    愛沢伸雄

 青木繁「海の幸」誕生と日露戦争の時代                                     

                                                       愛沢伸雄(NPO法人安房文化遺産フォーラム代表) 

4.日露戦争のなかの布良の「海軍望楼」と「帝国水難救済会布良救難所」

(2) 日露戦争勃発と要衝の地「布良」での動き

①日露戦争の開戦

1904(明治37)年2月10日 ロシアへ宣戦布告(日露戦争の開始)

 

(小谷家所蔵)

2月11日 ロシア海軍ウラジオストク艦隊(装甲巡洋艦3隻・巡洋艦1隻を基幹)が津軽海峡西方地域に現れる。この日津軽半島沖で「名古浦丸」、4月25日には韓国元山沖「金州丸」(3967トン)、6月15日には玄海灘において「常陸丸」(6172トン)と「和泉丸」が撃沈され、「佐渡丸」が損害うける。「常陸丸」は陸軍運送船で、乗船していた約1,000名の乗組員・兵士が死亡するという大惨事となる。

(『明治期国土防衛史』より)

6月15日~7月28日ウラジオ艦隊の動き(青木繁らが布良に来た期間なので別項で取り上げる。

6月30日には韓国元山港沖に現れ艦砲射撃を行い、7月20日には津軽海峡を抜けて太平洋沿岸を南下して東京湾口に。上村彦之丞司令官指揮の第2艦隊(装甲巡洋艦「出雲」・「常盤」・「磐手」など)は、ウラジオ艦隊の追跡にあて、哨戒活動をしていたものの神出鬼没で捕捉が難しかった。

この第2艦隊が対馬の浅海湾を出港し、7月25日南九州の都井岬沖から室戸崎へ、そして「布良」付近に向かうべしとの訓令を受け、28日正午過ぎに「布良沖」に到着したが、時すでに遅くウラジオ艦隊は北に去っていたのである。

第2艦隊が到着する前の約2週間は、太平洋宇沿岸、と りわけ東京湾口部でのウラジオ艦隊のゲリラ的な動き、その通商破壊戦のなかで、「布良海軍望楼」や「布良救難所」では大変な状況下にあったといえる。その動きは派遣されていた通信員によって記事が新聞社に送られ、大きく報道された。時に号外となったこともあり世論は激昂して、第2艦隊の上村司令長官は強く批判された。

まさにこの時期に、青木ら3名は、東京湾汽船(株)汽船に霊岸島から乗船して館山に来たわけで、布良での動きを通じ砲撃音を聞いたはずで海戦の姿を感じたはずである。

1904(明治37)年8月17日 内令「海軍軍用通信所条例」軍用電信取扱所ハ作戦上必要ノ地点ニ設置シ専ラ軍用電信取扱ニ関スルコトヲ掌ル…明治三十七八年戦役ニ於ケル軍用電信取扱所…有線電信ノ設備ヲ有シタル常設望楼(32か所)及仮設望楼(12か所) 「布良」

② 布良沖のウラジオ艦隊の動きによる危機的状況

布良海軍望楼は、民間地図などに記載された軍事施設である。日露戦争が勃発して、海軍が警戒していたのは、ロシア太平洋艦隊の「ウラジオ艦隊」が、東京湾口部に侵入して沿岸部(横須賀軍港・鉄道・港湾施設)に艦砲射撃を加えると輸送関係に致命的な問題になると軍部は危惧していた。

そこで布良や長津呂海軍望楼には,東京湾口部の防御上において、最重要の役割が与えられ、とくに横須賀鎮守府では水雷隊攻撃部水雷艇7隻で湾口部海域を巡回していた。その心配が現実のものになった。

1904(明治37)年7月下旬の東京湾口部での「ウラジオ艦隊」(装甲巡洋艦ロシア(13,675トン)・グロムボイ(13,220トン)リューリック(11,690トン)の各軍艦には、8インチ(20センチ)砲4門、6インチ(15センチ)砲16門を搭載。強力な攻撃力をもっていた)の動きであった。そのときに青木繁らは布良においてどのように向きあっていたのであろうか。

2月11日 ロシア海軍ウラジオ艦隊が津軽海峡西方地域に現れる。

6月15日 ロシア太平洋艦隊の一部でウラジオストック港を根拠にしているウラジオ艦隊(巡洋艦4隻)が玄海灘で兵員を輸送中の船舶を襲撃した。その結果、「佐渡丸」(6,226トン)が大破、「常陸丸」(ひたちまる)(6,175トン)と「和泉丸」(3,967トン)が撃沈され、国民に大きな衝撃をあたえた。

7月10日 津軽海峡を西から東に通過し太平洋に出て、汽船「高島丸」(318トン)を撃沈 し続いて英国汽船「サマーラ号」(2,831トン)を臨検・解放、さらに帆船「喜寶丸」(140ン)を撃沈し、汽船「共同運輸丸」(147トン)を解放、帆船「第二北生丸」(91トン)を撃沈した。

「(東京朝日7月26日付に記載された 22日以来25日午後3時に至る迄の露艦行動」)  

7月22日  塩屋崎沖(いわき市)で独国汽船「アラビア号」(2,863トン)を拿捕して、ウラジオストックに回航。南下して房総半島を廻る。

7月24日  御前崎沖で英国汽船「ナイト・コマンダー号」を撃沈。東方に向かい伊豆半島沖で帆船「自在丸」(199トン)と帆船「福就丸」(130トン)を撃沈し、英汽船「に図南号」(2,269トン)を臨検・解放した。そして、東京湾口部を動き廻る。

7月25日 野島沖では独国汽船「テア号」(1,613トン)を撃沈し、英国汽船「カルカス号」(6,748トン)を拿捕するとともに、ウラジオストックに回航した。

その後北上し7月30日に津軽海峡を通過して、8月1日にウラジオストックに帰港した。

  

(東京朝日1904年7月26日付)

7月28日 上村彦之丞司令官指揮の第2艦隊(装甲巡洋艦「出雲」(9750トン)・「常盤」(9700トン)・「磐手」(9750トン)など)は、対馬の浅海湾を出港し、7月25日南九州の都井岬沖から室戸崎へ、そして「布良」付近に向かうべしとの訓令を受け、28日正午過ぎに「布良沖」に到着したものの、すでにウラジオ艦隊は北に去っていた。

 

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青木繁「海の幸」誕生と日露戦争の時代 4.日露戦争のなかの布良の「海軍望楼」と「帝国水難救済会布良救難所」 (1)東京湾要塞の最前線「布良海軍望楼」      愛沢伸雄

 青木繁「海の幸」誕生と日露戦争の時代                                     

                                                       愛沢伸雄(NPO法人安房文化遺産フォーラム代表) 

 

4.日露戦争のなかの布良の「海軍望楼」と「帝国水難救済会布良救難所」

(1)東京湾要塞の最前線「布良海軍望楼」

①「海軍(海岸)望楼」誕生と東京湾要塞の建設をみる

要塞とは、敵軍の侵入を防ぐため要害の地に築いた砦のことで、敵の攻撃に対し一定の地域の強化した軍事手段を要塞化といい、防御のための砲台などの施設が戦術的に配備された。近代の国境要塞は敵侵入を阻むだけでなく、侵略を容易にする目的でも建設された。また海峡・湾口部置かれた沿岸要塞は、敵艦艇の行動を制限するとともに侵入を阻止する軍事拠点となった。

そのなかで沿岸要所に置かれたのが海岸望楼であり、その後「海軍望楼」と改称され、海上の見張りや周辺を航行する艦船との通信をはじめ、気象観測しての通報・天気予報・暴風警報、そして海難報告などの任務にあたった。

日本では、明治期に主要海峡や港湾の防衛のための大規模な沿岸要塞建設が開始され、東京湾岸にある観音崎と富津で砲台構築が始まった。日清戦争後では海防充実の一環として、日露戦争前後には対外侵略の戦略拠点として沿岸要塞は積極的に位置付けられる。なかでも1880(明治13)年に起工され、1932(昭和7)年に完成した永久要塞が一等要塞となる「東京湾要塞」である。

この要塞は富津岬と観音崎との間に3つの海堡を置き、三浦半島側では横須賀軍港地区をはじめ、走水・観音崎、久里浜、三崎に、また房総半島南部の東京湾岸側には、富津をはじめ、金谷や大房岬、館山の洲崎などに東京湾口全域を射程に入れた多数の砲台を配備された。日清戦争の勃発により全国規模で要塞建設がすすみ、日露戦争ではウラジオ艦隊が津軽海峡を通過し、東京湾口部に現れたことで、帝都防衛の前線として東京湾要塞が一段と重要視された。

ところで、1893(明治28)年の「要塞司令部条例」によって、永久防御工事を施し守備している場所は「要塞」とされ、その周辺一帯を「要塞地帯」とした。1899(明治32)年には、軍事機密保持と防御営造物の保安のために、「要塞地帯法」と「軍機保護法」が公布され、指定された区域での水陸の形状を測量・撮影・模写することや、地表の高低の土木工事、築造物の増改築などには、要塞司令部からの許可がもとめられた。防御営造物から250間(約455m)以内の要塞地帯第一区では、一般人の出入りが禁止され、地帯内の憲兵隊や特高警察によって、防諜上住民が厳しく監視された。また要塞地帯の地図は一般には公表されず、重要地点を空白にしていた。とくに戦時になると防諜(スパイ防止)法規が強化されていく。

なお「要塞地帯法」は陸軍省海軍省告示によりおこなわれ、海軍省は要塞区域を拡張し、とくに東京湾要塞地帯では、要塞は主に陸軍東京湾守備兵団に属し、要塞の海域部は海軍横須賀鎮守府管轄であり、なかでも東京湾口や横須賀軍港の防御は、陸海軍が連携して帝都防衛にあたるとしていた。布良に明治期に「海岸望楼」をおかれるが、その場所と設立過程が不明であった。

近年、国会図書館(アジア歴史資料センター)資料が見つかったので紹介する。

    

② 年表:「布良海軍(海岸)望楼」の建設と東京湾要塞

1891(明治24)年4月    布良望楼より館山電信局間…電信架設と線路実地測量開始

      7月    布良大山にある「布良字鳶巣」の土地所有者6名から461坪の買上げする

1892(明治25)年7月   鳶ノ巣…望楼へ電信線架設…館山郵便電信局電柱添架

9月     布良望楼信号棹修理経費

1894(明治26)年8月    布良望楼…電気室其他付属工事費増額。

海岸望楼軍事電信通信開始…安房国布良

1894(明治27)年6月30日 勅令第77号「海岸望楼条例」海軍は日清戦争開戦直前に全国の要衝に海岸望楼を設置し、陸上と艦船との信号及び海上見張り・気象観測などを担当。

 鎮守府参謀長の指揮下で望楼監督官の監督によって、各海岸望楼は望楼長・ 望楼手2名で沿岸監視体制をおこなう。

       8月5日 横須賀鎮守府所管 

          NO.1「布良」(~1921(大正10)年)2.観音崎 3.剣崎 4.長津呂

                                  呉鎮守府:4か所・佐世保鎮守府:7か所 全国15か所

8月6日   通達「海岸望楼軍用電信取扱規則」

※ 横須賀水雷隊攻撃部(水雷艇7隻)が配備され、警備範囲は布良から長津呂を結ぶ線の以内(布良港は寄港地となる)

1895(明治28)年3月30日 勅令第39号「要塞司令部条例」制定

4月    布良望楼へ風信器・風力計台・百葉箱・雨量計・晴雨計置所

4月15日  陸軍大臣山県有朋「軍備拡充意見書」奏上

4月17日  日清講和条約(下関条約)

4月18日  独仏露3か国、清国へ遼東半島返還を勧告(三国干渉)

10月    5個師団を増設し、13個師団体制。

※ 1897(明治30)年にイタリア人マルコニーが無線電信会社をつくり英仏間の通信に成功の報に接すると、逓信省はすぐに研究に着手して通信試験に成功。1903(明治36)年には長崎台湾間の通信に成功。

(海底ケーブルの敷設と無線通信が対露戦へ向けて最重要戦略)

1996(明治29)年12月    海軍大臣西郷従道と逓信大臣野村靖宛に富崎村人民総代藤森樹益と村長神田吉右衛門名の連名で「海軍望楼電信利用之義ニ付請願」を提出。

(別項で『請願』内容の概要を記載している)

1897(明治30)年10月  富崎村からの『請願書』が受け入れられ布良海岸望楼においての公衆電報取扱は、戦時及び演習中を除き、通信取扱は午前6時より午後8時までとする。

12月   「海岸監視哨勤務令」陸軍が戦時または事変に海岸の要衝地点に監視哨を設置し、敵情を監視し、海岸を警戒するため。

敵の上陸が想定される場所を全国65か所指定。近衛師団が湊町・銚子・勝浦湾、そして「館山湾」に監視哨 (師団長に隷する哨長以下監視員7名と通信員2名 で編成)

1898(明治31)年9月        望楼気象通報開始。9月15日より中央気象台と気象通報実施…東京及安房国館山間国用電線無料…

1899(明治32)年1月  布良望楼電報受付所新営

    7月15日  軍事上の秘密、いわゆる軍事機密(軍機)を保護する目的「軍機保護法」公布

1900(明治33)年9月1日 海岸望楼は海軍望楼と改称。戦時だけでなく平時にも常設。

海軍省告示  「海軍望楼ニ於テ海難船ヲ発見シタルトキ通報方及其ノ附近通過ノ船舶心得方ノ件」:海軍望楼ニ於テ海難船舶ヲ発見シタルトキハ…附近水難救済会ノ 救難所ニ通報ス。海軍望楼附近ヲ通過スル船舶ハ万国船舶信号旗ヲ以テ其 ノ信号符号ヲ表示スヘシ

内令「海軍望楼ニ関スル特定事項ノ件」(20か所)の海軍望楼の位置は、軍事上成るべく秘密に保つ必要。

1903(明治36)年3月13日   官報第5905号逓信省告示「布良海軍望楼電信取扱所での公衆電報の取扱を廃止」

6月~12月  軍艦通信装置改造及び増設。無線通信の試験

1904(明治37)年1月22日 勅令「防御海面令」:国土の重要沿岸海面を指定して船舶の通行を制限または禁止できる。(開戦当初沿岸3海里以内 11月27日からは沿岸6海里)

指定告示第1号「東京湾口」指定日2月10日

 

青木繁「海の幸」誕生と日露戦争の時代   3.青木繁らが逗留した小谷家をさぐる (3)石井家の人びと 愛沢伸雄

 青木繁「海の幸」誕生と日露戦争の時代                                     

                                                       愛沢伸雄(NPO法人安房文化遺産フォーラム代表) 

 

3. 青木繁らが逗留した小谷家をさぐる

(3)石井家の人びと

                ~小谷喜録妻「満寿」の存在

 ① 喜録の義父石井嘉右衛門とその家族 (石井雅人氏資料提供)

     

石井嘉右衛門直幸

                              1848(嘉永元)~1911(明治44)年(64歳没)

妻 寿め 1856(安政3)~1911(明治44)年(58歳没)

父親の直廣は神田家からの養子で吉助(文吉)。相浜の石井家と布良の神田家は婚姻関係をもっていた。石井嘉右衛門は15歳で相浜村名主になり、1870(明治3)年に相浜村戸長、1897(明治30)年には富崎村長となった。1903(明治36)年3月、帝国水難救済会布良救難所長となり、日露戦役の功で勲七等青色桐葉章及び金50円を授与される。1907(明治40)年に帝国水難救済会より功績により銀杯を授与。

この年に村長を辞し、1911(明治44)年8月に妻寿めが58歳で亡くなると、後を追うように9月64歳で死去している。

長男 石井嘉男   1870(明治3)~1933(昭和8)年(64歳没)

妻 ちせ     1873(明治6)~1941(昭和16)年(69歳没)

② 次男 石井武男をみる

   小谷家から発見された写真】

1872(明治5)~1934(昭和9)年(63歳没)

妻 米  1883(明治16)~1919(大正8)年(37歳没)

東京市京橋区西紺屋町16 山下久兵衛娘

1901(明治34)年18歳結婚

 A.石井武男の軍人経歴をみる

(『石井嘉右衛門家歴代系図書』より抜粋・石井雅人氏蔵)

1872(明治5)年4月 石井嘉右衛門直幸二男として出生

1888(明治21)年4月 成城学校入学

1890(明治23)年12月 士官候補生として近衛砲兵連隊入営

1893(明治26)年7月 陸軍士官学校卒業

1894(明治27)年5月 陸軍砲兵少尉任命 野戦砲兵第3連隊第6中隊附

1895(明治28)年10月「明治弐拾七八年戦役ノ功ニ依リ勲六等単光旭日章及金弐百

圓ヲ授ケ賜フ」

1896(明治29)年11月 陸軍砲兵学校教育課程卒業

1901(明治34)年7月  野戦砲兵第18連隊中隊長

8月  陸軍結婚条例により号式結婚。妻・高橋米(18歳)

1902(明治35)年11月 勲五等瑞宝章

   1904(明治37)年4月 近衛野戦砲兵連隊補充大隊中隊長

           10月 野戦砲兵第13連隊大隊長

           11月 野戦砲兵第14連隊大隊長 陸軍砲兵少佐任命

1906(明治39)年3月 近衛野戦砲兵連隊第2大隊長

4月 「明治三十七八年戦役ノ功ニ依リ功四級金鵄勲章並ニ年

金五百圓及勲四等旭日小綬章ヲ授ケ賜フ」

1912(明治45)年4月 「皇后陛下沼津御用邸御滞在中ノ供奉仰付ラル」

5月  陸軍砲兵中佐任命

6月 「皇后陛下鎌倉御用邸ニ行啓ニ付供奉被仰付」

1914(大正3)年5月 「昭憲皇太后大喪儀ニ於テ代々木桃山間ノ供奉ヲ被命」

8月  野戦砲兵第7連隊長

1916(大正5)年8月  陸軍砲兵大佐任命

1934(昭和9)年1月  東京市赤坂区青山南で死去(63歳)

B.「陸軍少佐 石井武男」と日露戦争

青木らは、小谷喜録から妻満寿の兄武男の軍人であることや、将兵たちの戦場での姿など話を聞いたであろうか。喜録は仕事のこともあり、新聞を購読していたはずである。

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日露戦争時の『野戦砲兵14連隊』

(明治38年3月~6月)石井武男少佐(国会図書館蔵)

長女・石井満寿  1875(明治8)~1918(大正7)年 (44歳没)

1891(明治24)年1月 小谷喜録(27歳)と結婚(16歳)

夫・小谷喜録  1864(元治元)~1926(大正15)年 62歳没

二女・石井里ん  1877(明治10)~1948(昭和23)年 72歳没

夫・上野幹太郎 1863(文久3)~1941(昭和16)年 79歳没

 

③ 夫・日箇原繁

                                  1871(明治4)~1944(昭和19)年(74歳没)

  三女 石井多美

                            1880(明治13)~1925(大正14)年(46歳没)

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【住所:東京都本郷区湯島切通町19番地】

 A.「日箇原繁」という人物から青木繁との接点をさぐる

1871(明治4)年3月6日 飛騨高山 高山市下一之町で出生

父・清吉 大賀屋・生糸・和紙販売 1876(明治9)年戸長

1882(明治15)年頃まで岐阜県議会議員

家業が没落したことで繁は高山中学中退する。明治中期に「名古屋」に移住。この時期、に日箇原繁は、福岡県久留米出身のユニヴァサリスト教会牧師赤司繁太郎と親しくなり、後に赤司牧師から洗礼をうけユニテリアン(自由キリスト教徒)となった。日箇原一家は「明治30年代」、東京市日本橋西河岸に移住したという。そして、1898(明治31)年から3年間、安孫子貞治郎・坂井義三郎・佐伯好郎らとともに、内村鑑三主筆の雑誌『東京独立雑誌』の編集(月2回)に従事したものの72号で廃刊となったという。

その後、星野錫の出版社「画報社」に関わり、絵画と文学を交流させる画期的な雑誌『月刊スッケチ』の発行兼編集人とか、1907(明治40)年版から1911(大正元)年版まで『日本美術年鑑』の編集主任で、『日本書家画家年表』などの著者になっている。

月刊スケッチ    IMG_8742

親しい友人として児玉花外や中村有楽、坂井義三郎、佐伯好郎といい、なかでも坂井義三郎(1871(明治4)~1940(昭和15)年)は、美術関係で重要な人物であった。坂井は、号を犀水といい、1871(明治4)年に石川県金沢で出生している。1891(明治24)年に帝国博物館技手兼臨時全国宝物取調局技手となり、後に辞任し関西学院などで宗教学を研究。1901(明治34)年に『東京評論』を発行し、また『美術画報』編集に従事するとともに、1905(明治38)年には白馬会機関紙『光風』の編集にあたりながら、『月刊スケッチ』の編集に参画している。黒田清輝など白馬会系の画家たちとの交流が深い。第1回白馬会賞の青木繁作品のことには詳しい人物である。

1910(明治43)年に『美術新報』主幹となり、その後、『美術週報』も主筆となった。1913(大正2)年に国民美術協会創立に参加し、理事兼主事。美術評論家として西洋美術を紹介し、明治末期画家の批評をおこなった。著書に「画聖ラファエル」「黒田清輝」などがある。

日箇原繁は、その後、明治薬学専門学校(校長恩田重信)で学んで薬剤師となり、明治40年代に酸素吸入器「オキシダータ」を製造販売し、製品の書籍も出版している。晩年は、大倉洋紙店(大倉文二・大倉邦彦)系列の貿易会社「大文洋行」に勤め、1940(昭和19)年に74歳で亡くなっている。

(石井雅人氏提供:父故英夫書簡に「父・日箇原繁のことども」(日箇原久)

IMG_7125    『枯れすすき』第20号(非売品)野口存彌 平成8年)

B.「画報社」所在地:東京都本郷区湯島切通町25番地(日箇原繁は「19番地」)

画報社の創立年は不明といわれているが、最初に手がけた美術雑誌『美術画報』が1894(明治27)年に創刊しており、続いて1897(明治30)年に『美術評論』、1902(明治35)年には『美術新報』を創刊している。

画報社は山東直砥が創設し、当初から東京印刷株式会社所長星野錫が協力し経営に当たり、編集責任者は小原大衛や坂井義三郎などで、なかでも岩村透は編集や執筆に積極的に参加したという。

  

「画報社」出版物

● 調査ポイント

a.「久留米」出身のユニヴァサリスト教会牧師「赤司繁太郎」

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b. 坂井義三郎と「日箇原繁」は「画報社」を通じて、東京美術学校と関わっていたので、第1回白馬賞をとった青木繁と面識があった可能性がある。

【 a.の検証 】

久留米出身のキリスト教牧師赤司繁太郎と繋がりはあったかどうかがポイントである。

「河北」調査研究で述べたように、1902~03(明治35~36)年の「窮乏」の時代は、梅野や森田などの仲間以外に、その「窮乏」を救うために援助していた人びとがいたかどうかにある。キリスト教会関係者などが想定されるが、その伏線には「旧約聖書」の挿絵を描いたというだけではなく、「赤司繁太郎」という人物と関わっていたのではないかと推察する。赤司は、牧師だけではなく、雑誌や書籍出版に関わり、なかでも青木繁も読んだであろう「ギリシャ神話」を日本で初めて翻訳して出版した人物という。

また、日露戦争前夜の世情のなかで、内村鑑三らをはじめキリスト教的な平等思想の広がりのもとで、社会主義や労働運動の高揚もあり、平和や平等、非戦と関わって牧師赤司繁太郎の活動は、久留米出身であり青木も耳にしたかもしれない。さらに東京では当時久留米出身者の集まり(藩主有馬氏を通じて「水天宮」参りが盛んになってきたという)があった。青木が水彩ハガキなどの販売にあたって、久留米出身者と関係があったといわれているので、赤司牧師のことも聞いていたのではないか。

ついでに久留米出身者として東京帝大法科大学卒業の弁護士「城数馬」がいる。高山植物が好きで日光によく行っていたが、定宿にしていたのが福田たねの父豊吉の実家の旅館であった。そこで知り合ったのが植物画を描いていた画家「五百城文哉」で、二人は意気投合して高山植物の観察活動をおこない新種を発見している。

この人物こそ「福田たね」や小杉未醒の画塾の先生であり、後にたねの父豊吉は城数馬から、青木繁が将来有望な画学生であると聞いた可能性もある。つまり、たねを通じて教師であった豊吉は、貧しい画家青木繁を支援していこうと考えたのではないか。

『青木繁』(角川新書)において、河北は豊吉が親戚の県議から青木を日光美術館長に就任させる依頼を受けたと記載し、青木は明治37年頃からたねの実家と関わりがあった可能性があるとする。そうなるとたねの父豊吉が、布良に写生旅行にいく二人分の資金を出したかもしれない。

【 b.の検証 】

坂井義三郎(犀水)が黒田らの白馬会関係者や「画報社」とも交流があったので、第1回白馬賞を受賞した東京美術学校学生青木繁と繋がりがあったという可能性はどうであろうか。

その理由の一つは、坂井が「河北」調査研究で指摘した朝日新聞(1904(明治37)年10月10日付)の日曜評論では「白馬会第8回展」の青木作品を高く評価している。この坂井の背後に「画報社」に勤めていた「日箇原繁」という編集者がいたとすると、もし青木らが布良に写生旅行に行くという話をした時に、義兄小谷喜録を紹介したとも考えられる。

絵画と文学との積極的接触や交流をはかる雑誌(月刊・菊判・各巻約50頁)として1905(明治38)年4月に『月刊スケッチ』が創刊されたものの、翌年3月に第12号で廃刊となった。この『月刊スケッチ』創刊号の発行兼編集人が「日箇原繁」であり、巌谷小波・徳富蘆花・正宗白鳥などの著名人が賛助し、この時代を代表する泉鏡花・広津柳浪・徳田秋声・島崎藤村・国木田独歩などが寄稿した。

 

青木繁「海の幸」誕生と日露戦争の時代 3.青木繁らが逗留した小谷家をさぐる(1)小谷喜録とその家族 (2)小谷喜録の生涯をみる 愛沢伸雄

青木繁「海の幸」誕生と日露戦争の時代 

愛沢 伸雄(NPO法人安房文化遺産フォーラム代表)

3. 青木繁らが逗留した小谷家をさぐる

(1) 小谷喜録とその家族

  戸主「小谷喜録」戸籍原本・明治31年9月12日        (小谷家蔵)

青木繁らが訪れた1904(明治37)年7月17日の小谷家一家の様子を見る。

まず「5人」家族であった。戸籍原本では喜録の父治助が記載されているが、青木らが逗留する2年前の1902(明治35)年9月に65歳で亡くなっている。

治助の後妻きさ(60歳)がおり、先妻つね(58歳)は1889(明治22)年に亡くなっており、翌年治助(54歳)は神戸村青木若松の叔母である「きさ」を後妻としている。なお、きさは1914(大正3)年に73歳で死去。治助は黒川権右衛門からの養子で、布良村の漁師頭となり初代布良区会議員であり、水産業振興のために神田吉右衛門村長らとともに村政を牽引していた人物。喜録は父治助の地域貢献の姿を見ながら成長していたことが、村政にも関わり、生涯にわたって村政では極めて重要な立場にあったと推察している。

明治31年9月に作成した戸籍には、明治36年12月4日に養子となった「ゆき」の記載はない。治助後妻きさの姉ゑい(神戸村藤原の小川家父勘蔵・母満きは死去し、ゑいが戸主)故小川勘蔵二女「ゆき」5歳(明治31年5月13日生)は、戸主小川ゑいからきさの養子(女)となっている。青木らが来た1904(明治37)7月、小谷家は五人家族であった。

なお、小谷家を資産面からみて富崎村布良でどのような位置にあったかが不明であったが、年代は明治30年代であったと思われる。この資料から小谷家は「漁船4隻」を所有しており、富崎村ではかなりの資産家であることがわかる。資産総額も記載されている他の布良漁業組合員らと比べて、布良ではトップクラスにあった。

IMG_6218 IMG_6217      【小谷家の資産】

『組合員所有不動産及以外ノ資産調書』

 (神田家文書・館山市博物館蔵)

富崎村布良千弐百五拾六番地 小谷喜録

一、郡村宅地 壱反六畝拾歩    此価格千九百六拾円也

一、畑    六反五畝廿九歩  此価格九百八拾五円也

一、家屋   参棟       此価格  五百円也

一、漁舩四艘漁具附属品一式   此価格 千弐百円也

価格合計 金 四千六百四拾五円也

 

(2) 小谷喜録の生涯をみる

① 年 表 

          1864(元治元)~1926(大正15)年 62歳没

1837(天保8)年5月 黒川権右衛門治助出生。のち小谷市松(喜六)の養子に。

1864(元治元)年12月 鮮魚仲買商の父治助のもと喜録(幼名・市松)出生。

1868(明治元)年    父治助が漁師頭に選任される。

1874(明治7)年4月  龍樹院に布良小学校開校。喜録(10歳)布良小学校卒業後、千葉・東京の私塾で和漢を学ぶ。

1876(明治9)年      布良で大火229戸焼失

1879(明治12)年     布良村と相浜村が合併し富崎村

1882(明治15)年     青木繁が福岡県久留米に出生。

1883(明治16)年  治助、衛生委員に就任。

1884(明治17)年9月 治助、布良村会議員に選出

1887(明治20)年    蓮寿院の相浜小学校と合併して富崎小学校になる。

1888(明治21)年2月  喜録、富崎尋常小学校授業生(教員)となる。

1889(明治22)年   町村制実施により正式に布良村と相浜村が合併し富崎村。富崎尋常小学校と改称。布良区の初代区会議員に小谷治助。 治助妻つね(58歳)死去。

11月21日 布良の大火で74戸焼失(小谷家も焼失)

1890(明治23)年    治助(53歳)、青木きさ(46歳)と再婚。喜録(26歳)、教員退職。  8月内村鑑三が引率し水産伝習所生徒実地演習のため小谷家訪問。  9月10日 関澤明清、小谷喜録に礼状(『日本重要水産動植物之図』贈呈)

1891(明治24)年2月 喜録(27歳)、石井嘉右衛門長女満寿(16歳)と結婚。長男喜三郎誕生・乳児死去。

1892(明治25)年   喜録(28歳)富崎村政に関わる。父治助は村会議員、

1893(明治26)年   富崎尋常高等小学校となる。(村長神田吉右衛門~明治32年まで)

1894(明治27)年    新校舎完成。6月 喜録(30歳)、二女種子誕生

1897(明治30)年 6月  喜録、家督相続。 12月1日 安房水産会富崎村委員に就任。

1901(明治34)年   喜録の義父石井嘉右衛門が富崎村長。喜録、村会議員に就任。

1902(明治35)年7月   富崎村政に貢献したことから感謝状と銀杯を授与。 9月    喜録(38歳)の父治助が死去(66歳)

1903(明治36)年3月  帝国水難救済会布良救難所創立。石井村長が所長、喜録は看守長となる。故小川勘蔵二女ゆき(5歳)を継母きさの養子とする。

1904 (明治37)年  日露戦争勃発。

青木繁、東京美術学校卒業。青木繁、森田恒友、坂本繁二郎、福田たねの4人は写生のため布良に来る。柏屋で一泊後、帝国水難救済会布良救難所の仕事で忙しい小谷喜録宅へ逗留。 《小谷家の家族は祖母きさ(63歳)・喜録(40歳)・満寿(30歳)種子(9歳・富崎尋常小3年生)・ゆき(6歳)》

1905 (明治38)年     青木繁と福田たね、西岬村伊戸の円光寺に逗留。

1909(明治42)年  富崎漁船改良会社設立に当たって株主になる。

1911 (明治44)年     青木繁、28歳で死去。石井嘉右衛門(64歳)と妻が死去。

1912(明治45)年 布良救難所看守長として帝国水難救済会総裁より銀製賞標授与。

1914(大正3)年    二女種子、千葉女子師範学校卒業。治助の後妻きさ71歳で死去。

1915(大正4)年      種子,東葛飾郡川間尋常高等小学校訓導赴任するも22歳で死去。

1918(大正7)年    喜録の妻満寿が44歳で死去。

1923(大正12)年  布良の大火137戸焼失。富崎村消防組頭で消防聯合表彰状授与。9月1日 関東大震災勃発し、1名死亡、家屋70戸・船119隻流失。喜録は富崎村助役として救援活動に尽力。被害を受けた布良漁港復旧事業に奔走。

1926(大正15)年   喜録、63歳で死去。

④小谷喜録        小谷喜録・妻ます                        川間小学・訓導 小谷種子

              喜録・満寿夫妻                           二女種子

④小谷喜録「日露戦争」布良救難所看守長表彰    IMG_2045                                 

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【小谷喜録は俳句を嗜み、俳号は「亀六」といった】

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小谷家から発見された満井武平(俳号:愛国) 『追悼俳句集』角田竹冷宗匠評

 

② 妻満寿・娘種子の香典帳から関係者をさぐる

  • 満寿の香典帳 1875(明治8)年~1918(大正7)年 (44歳没)

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「石井武男」「日箇原繁」「川上恭三」らの名前が見える】

  • 小谷種子の香典帳 1894(明治27)~1915(大正4)年

(二女種子が川間小学校訓導として赴任するも1年後に22歳で死去)

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「川上恭三」「日箇原繁」らの名前がみえる】