青木繁「海の幸」誕生と日露戦争の時代 3.青木繁らが逗留した小谷家をさぐる(1)小谷喜録とその家族 (2)小谷喜録の生涯をみる 愛沢伸雄

青木繁「海の幸」誕生と日露戦争の時代 

愛沢 伸雄(NPO法人安房文化遺産フォーラム代表)

3. 青木繁らが逗留した小谷家をさぐる

(1) 小谷喜録とその家族

  戸主「小谷喜録」戸籍原本・明治31年9月12日        (小谷家蔵)

青木繁らが訪れた1904(明治37)年7月17日の小谷家一家の様子を見る。

まず「5人」家族であった。戸籍原本では喜録の父治助が記載されているが、青木らが逗留する2年前の1902(明治35)年9月に65歳で亡くなっている。

治助の後妻きさ(60歳)がおり、先妻つね(58歳)は1889(明治22)年に亡くなっており、翌年治助(54歳)は神戸村青木若松の叔母である「きさ」を後妻としている。なお、きさは1914(大正3)年に73歳で死去。治助は黒川権右衛門からの養子で、布良村の漁師頭となり初代布良区会議員であり、水産業振興のために神田吉右衛門村長らとともに村政を牽引していた人物。喜録は父治助の地域貢献の姿を見ながら成長していたことが、村政にも関わり、生涯にわたって村政では極めて重要な立場にあったと推察している。

明治31年9月に作成した戸籍には、明治36年12月4日に養子となった「ゆき」の記載はない。治助後妻きさの姉ゑい(神戸村藤原の小川家父勘蔵・母満きは死去し、ゑいが戸主)故小川勘蔵二女「ゆき」5歳(明治31年5月13日生)は、戸主小川ゑいからきさの養子(女)となっている。青木らが来た1904(明治37)7月、小谷家は五人家族であった。

なお、小谷家を資産面からみて富崎村布良でどのような位置にあったかが不明であったが、年代は明治30年代であったと思われる。この資料から小谷家は「漁船4隻」を所有しており、富崎村ではかなりの資産家であることがわかる。資産総額も記載されている他の布良漁業組合員らと比べて、布良ではトップクラスにあった。

IMG_6218 IMG_6217      【小谷家の資産】

『組合員所有不動産及以外ノ資産調書』

 (神田家文書・館山市博物館蔵)

富崎村布良千弐百五拾六番地 小谷喜録

一、郡村宅地 壱反六畝拾歩    此価格千九百六拾円也

一、畑    六反五畝廿九歩  此価格九百八拾五円也

一、家屋   参棟       此価格  五百円也

一、漁舩四艘漁具附属品一式   此価格 千弐百円也

価格合計 金 四千六百四拾五円也

 

(2) 小谷喜録の生涯をみる

① 年 表 

          1864(元治元)~1926(大正15)年 62歳没

1837(天保8)年5月 黒川権右衛門治助出生。のち小谷市松(喜六)の養子に。

1864(元治元)年12月 鮮魚仲買商の父治助のもと喜録(幼名・市松)出生。

1868(明治元)年    父治助が漁師頭に選任される。

1874(明治7)年4月  龍樹院に布良小学校開校。喜録(10歳)布良小学校卒業後、千葉・東京の私塾で和漢を学ぶ。

1876(明治9)年      布良で大火229戸焼失

1879(明治12)年     布良村と相浜村が合併し富崎村

1882(明治15)年     青木繁が福岡県久留米に出生。

1883(明治16)年  治助、衛生委員に就任。

1884(明治17)年9月 治助、布良村会議員に選出

1887(明治20)年    蓮寿院の相浜小学校と合併して富崎小学校になる。

1888(明治21)年2月  喜録、富崎尋常小学校授業生(教員)となる。

1889(明治22)年   町村制実施により正式に布良村と相浜村が合併し富崎村。富崎尋常小学校と改称。布良区の初代区会議員に小谷治助。 治助妻つね(58歳)死去。

11月21日 布良の大火で74戸焼失(小谷家も焼失)

1890(明治23)年    治助(53歳)、青木きさ(46歳)と再婚。喜録(26歳)、教員退職。  8月内村鑑三が引率し水産伝習所生徒実地演習のため小谷家訪問。  9月10日 関澤明清、小谷喜録に礼状(『日本重要水産動植物之図』贈呈)

1891(明治24)年2月 喜録(27歳)、石井嘉右衛門長女満寿(16歳)と結婚。長男喜三郎誕生・乳児死去。

1892(明治25)年   喜録(28歳)富崎村政に関わる。父治助は村会議員、

1893(明治26)年   富崎尋常高等小学校となる。(村長神田吉右衛門~明治32年まで)

1894(明治27)年    新校舎完成。6月 喜録(30歳)、二女種子誕生

1897(明治30)年 6月  喜録、家督相続。 12月1日 安房水産会富崎村委員に就任。

1901(明治34)年   喜録の義父石井嘉右衛門が富崎村長。喜録、村会議員に就任。

1902(明治35)年7月   富崎村政に貢献したことから感謝状と銀杯を授与。 9月    喜録(38歳)の父治助が死去(66歳)

1903(明治36)年3月  帝国水難救済会布良救難所創立。石井村長が所長、喜録は看守長となる。故小川勘蔵二女ゆき(5歳)を継母きさの養子とする。

1904 (明治37)年  日露戦争勃発。

青木繁、東京美術学校卒業。青木繁、森田恒友、坂本繁二郎、福田たねの4人は写生のため布良に来る。柏屋で一泊後、帝国水難救済会布良救難所の仕事で忙しい小谷喜録宅へ逗留。 《小谷家の家族は祖母きさ(63歳)・喜録(40歳)・満寿(30歳)種子(9歳・富崎尋常小3年生)・ゆき(6歳)》

1905 (明治38)年     青木繁と福田たね、西岬村伊戸の円光寺に逗留。

1909(明治42)年  富崎漁船改良会社設立に当たって株主になる。

1911 (明治44)年     青木繁、28歳で死去。石井嘉右衛門(64歳)と妻が死去。

1912(明治45)年 布良救難所看守長として帝国水難救済会総裁より銀製賞標授与。

1914(大正3)年    二女種子、千葉女子師範学校卒業。治助の後妻きさ71歳で死去。

1915(大正4)年      種子,東葛飾郡川間尋常高等小学校訓導赴任するも22歳で死去。

1918(大正7)年    喜録の妻満寿が44歳で死去。

1923(大正12)年  布良の大火137戸焼失。富崎村消防組頭で消防聯合表彰状授与。9月1日 関東大震災勃発し、1名死亡、家屋70戸・船119隻流失。喜録は富崎村助役として救援活動に尽力。被害を受けた布良漁港復旧事業に奔走。

1926(大正15)年   喜録、63歳で死去。

④小谷喜録        小谷喜録・妻ます                        川間小学・訓導 小谷種子

              喜録・満寿夫妻                           二女種子

④小谷喜録「日露戦争」布良救難所看守長表彰    IMG_2045                                 

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【小谷喜録は俳句を嗜み、俳号は「亀六」といった】

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小谷家から発見された満井武平(俳号:愛国) 『追悼俳句集』角田竹冷宗匠評

 

② 妻満寿・娘種子の香典帳から関係者をさぐる

  • 満寿の香典帳 1875(明治8)年~1918(大正7)年 (44歳没)

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「石井武男」「日箇原繁」「川上恭三」らの名前が見える】

  • 小谷種子の香典帳 1894(明治27)~1915(大正4)年

(二女種子が川間小学校訓導として赴任するも1年後に22歳で死去)

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「川上恭三」「日箇原繁」らの名前がみえる】

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