青木繁「海の幸」誕生と日露戦争の時代   3.青木繁らが逗留した小谷家をさぐる (3)石井家の人びと 愛沢伸雄

 青木繁「海の幸」誕生と日露戦争の時代                                     

                                                       愛沢伸雄(NPO法人安房文化遺産フォーラム代表) 

 

3. 青木繁らが逗留した小谷家をさぐる

(3)石井家の人びと

                ~小谷喜録妻「満寿」の存在

 ① 喜録の義父石井嘉右衛門とその家族 (石井雅人氏資料提供)

     

石井嘉右衛門直幸

                              1848(嘉永元)~1911(明治44)年(64歳没)

妻 寿め 1856(安政3)~1911(明治44)年(58歳没)

父親の直廣は神田家からの養子で吉助(文吉)。相浜の石井家と布良の神田家は婚姻関係をもっていた。石井嘉右衛門は15歳で相浜村名主になり、1870(明治3)年に相浜村戸長、1897(明治30)年には富崎村長となった。1903(明治36)年3月、帝国水難救済会布良救難所長となり、日露戦役の功で勲七等青色桐葉章及び金50円を授与される。1907(明治40)年に帝国水難救済会より功績により銀杯を授与。

この年に村長を辞し、1911(明治44)年8月に妻寿めが58歳で亡くなると、後を追うように9月64歳で死去している。

長男 石井嘉男   1870(明治3)~1933(昭和8)年(64歳没)

妻 ちせ     1873(明治6)~1941(昭和16)年(69歳没)

② 次男 石井武男をみる

   小谷家から発見された写真】

1872(明治5)~1934(昭和9)年(63歳没)

妻 米  1883(明治16)~1919(大正8)年(37歳没)

東京市京橋区西紺屋町16 山下久兵衛娘

1901(明治34)年18歳結婚

 A.石井武男の軍人経歴をみる

(『石井嘉右衛門家歴代系図書』より抜粋・石井雅人氏蔵)

1872(明治5)年4月 石井嘉右衛門直幸二男として出生

1888(明治21)年4月 成城学校入学

1890(明治23)年12月 士官候補生として近衛砲兵連隊入営

1893(明治26)年7月 陸軍士官学校卒業

1894(明治27)年5月 陸軍砲兵少尉任命 野戦砲兵第3連隊第6中隊附

1895(明治28)年10月「明治弐拾七八年戦役ノ功ニ依リ勲六等単光旭日章及金弐百

圓ヲ授ケ賜フ」

1896(明治29)年11月 陸軍砲兵学校教育課程卒業

1901(明治34)年7月  野戦砲兵第18連隊中隊長

8月  陸軍結婚条例により号式結婚。妻・高橋米(18歳)

1902(明治35)年11月 勲五等瑞宝章

   1904(明治37)年4月 近衛野戦砲兵連隊補充大隊中隊長

           10月 野戦砲兵第13連隊大隊長

           11月 野戦砲兵第14連隊大隊長 陸軍砲兵少佐任命

1906(明治39)年3月 近衛野戦砲兵連隊第2大隊長

4月 「明治三十七八年戦役ノ功ニ依リ功四級金鵄勲章並ニ年

金五百圓及勲四等旭日小綬章ヲ授ケ賜フ」

1912(明治45)年4月 「皇后陛下沼津御用邸御滞在中ノ供奉仰付ラル」

5月  陸軍砲兵中佐任命

6月 「皇后陛下鎌倉御用邸ニ行啓ニ付供奉被仰付」

1914(大正3)年5月 「昭憲皇太后大喪儀ニ於テ代々木桃山間ノ供奉ヲ被命」

8月  野戦砲兵第7連隊長

1916(大正5)年8月  陸軍砲兵大佐任命

1934(昭和9)年1月  東京市赤坂区青山南で死去(63歳)

B.「陸軍少佐 石井武男」と日露戦争

青木らは、小谷喜録から妻満寿の兄武男の軍人であることや、将兵たちの戦場での姿など話を聞いたであろうか。喜録は仕事のこともあり、新聞を購読していたはずである。

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日露戦争時の『野戦砲兵14連隊』

(明治38年3月~6月)石井武男少佐(国会図書館蔵)

長女・石井満寿  1875(明治8)~1918(大正7)年 (44歳没)

1891(明治24)年1月 小谷喜録(27歳)と結婚(16歳)

夫・小谷喜録  1864(元治元)~1926(大正15)年 62歳没

二女・石井里ん  1877(明治10)~1948(昭和23)年 72歳没

夫・上野幹太郎 1863(文久3)~1941(昭和16)年 79歳没

 

③ 夫・日箇原繁

                                  1871(明治4)~1944(昭和19)年(74歳没)

  三女 石井多美

                            1880(明治13)~1925(大正14)年(46歳没)

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【住所:東京都本郷区湯島切通町19番地】

 A.「日箇原繁」という人物から青木繁との接点をさぐる

1871(明治4)年3月6日 飛騨高山 高山市下一之町で出生

父・清吉 大賀屋・生糸・和紙販売 1876(明治9)年戸長

1882(明治15)年頃まで岐阜県議会議員

家業が没落したことで繁は高山中学中退する。明治中期に「名古屋」に移住。この時期、に日箇原繁は、福岡県久留米出身のユニヴァサリスト教会牧師赤司繁太郎と親しくなり、後に赤司牧師から洗礼をうけユニテリアン(自由キリスト教徒)となった。日箇原一家は「明治30年代」、東京市日本橋西河岸に移住したという。そして、1898(明治31)年から3年間、安孫子貞治郎・坂井義三郎・佐伯好郎らとともに、内村鑑三主筆の雑誌『東京独立雑誌』の編集(月2回)に従事したものの72号で廃刊となったという。

その後、星野錫の出版社「画報社」に関わり、絵画と文学を交流させる画期的な雑誌『月刊スッケチ』の発行兼編集人とか、1907(明治40)年版から1911(大正元)年版まで『日本美術年鑑』の編集主任で、『日本書家画家年表』などの著者になっている。

月刊スケッチ    IMG_8742

親しい友人として児玉花外や中村有楽、坂井義三郎、佐伯好郎といい、なかでも坂井義三郎(1871(明治4)~1940(昭和15)年)は、美術関係で重要な人物であった。坂井は、号を犀水といい、1871(明治4)年に石川県金沢で出生している。1891(明治24)年に帝国博物館技手兼臨時全国宝物取調局技手となり、後に辞任し関西学院などで宗教学を研究。1901(明治34)年に『東京評論』を発行し、また『美術画報』編集に従事するとともに、1905(明治38)年には白馬会機関紙『光風』の編集にあたりながら、『月刊スケッチ』の編集に参画している。黒田清輝など白馬会系の画家たちとの交流が深い。第1回白馬会賞の青木繁作品のことには詳しい人物である。

1910(明治43)年に『美術新報』主幹となり、その後、『美術週報』も主筆となった。1913(大正2)年に国民美術協会創立に参加し、理事兼主事。美術評論家として西洋美術を紹介し、明治末期画家の批評をおこなった。著書に「画聖ラファエル」「黒田清輝」などがある。

日箇原繁は、その後、明治薬学専門学校(校長恩田重信)で学んで薬剤師となり、明治40年代に酸素吸入器「オキシダータ」を製造販売し、製品の書籍も出版している。晩年は、大倉洋紙店(大倉文二・大倉邦彦)系列の貿易会社「大文洋行」に勤め、1940(昭和19)年に74歳で亡くなっている。

(石井雅人氏提供:父故英夫書簡に「父・日箇原繁のことども」(日箇原久)

IMG_7125    『枯れすすき』第20号(非売品)野口存彌 平成8年)

B.「画報社」所在地:東京都本郷区湯島切通町25番地(日箇原繁は「19番地」)

画報社の創立年は不明といわれているが、最初に手がけた美術雑誌『美術画報』が1894(明治27)年に創刊しており、続いて1897(明治30)年に『美術評論』、1902(明治35)年には『美術新報』を創刊している。

画報社は山東直砥が創設し、当初から東京印刷株式会社所長星野錫が協力し経営に当たり、編集責任者は小原大衛や坂井義三郎などで、なかでも岩村透は編集や執筆に積極的に参加したという。

  

「画報社」出版物

● 調査ポイント

a.「久留米」出身のユニヴァサリスト教会牧師「赤司繁太郎」

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b. 坂井義三郎と「日箇原繁」は「画報社」を通じて、東京美術学校と関わっていたので、第1回白馬賞をとった青木繁と面識があった可能性がある。

【 a.の検証 】

久留米出身のキリスト教牧師赤司繁太郎と繋がりはあったかどうかがポイントである。

「河北」調査研究で述べたように、1902~03(明治35~36)年の「窮乏」の時代は、梅野や森田などの仲間以外に、その「窮乏」を救うために援助していた人びとがいたかどうかにある。キリスト教会関係者などが想定されるが、その伏線には「旧約聖書」の挿絵を描いたというだけではなく、「赤司繁太郎」という人物と関わっていたのではないかと推察する。赤司は、牧師だけではなく、雑誌や書籍出版に関わり、なかでも青木繁も読んだであろう「ギリシャ神話」を日本で初めて翻訳して出版した人物という。

また、日露戦争前夜の世情のなかで、内村鑑三らをはじめキリスト教的な平等思想の広がりのもとで、社会主義や労働運動の高揚もあり、平和や平等、非戦と関わって牧師赤司繁太郎の活動は、久留米出身であり青木も耳にしたかもしれない。さらに東京では当時久留米出身者の集まり(藩主有馬氏を通じて「水天宮」参りが盛んになってきたという)があった。青木が水彩ハガキなどの販売にあたって、久留米出身者と関係があったといわれているので、赤司牧師のことも聞いていたのではないか。

ついでに久留米出身者として東京帝大法科大学卒業の弁護士「城数馬」がいる。高山植物が好きで日光によく行っていたが、定宿にしていたのが福田たねの父豊吉の実家の旅館であった。そこで知り合ったのが植物画を描いていた画家「五百城文哉」で、二人は意気投合して高山植物の観察活動をおこない新種を発見している。

この人物こそ「福田たね」や小杉未醒の画塾の先生であり、後にたねの父豊吉は城数馬から、青木繁が将来有望な画学生であると聞いた可能性もある。つまり、たねを通じて教師であった豊吉は、貧しい画家青木繁を支援していこうと考えたのではないか。

『青木繁』(角川新書)において、河北は豊吉が親戚の県議から青木を日光美術館長に就任させる依頼を受けたと記載し、青木は明治37年頃からたねの実家と関わりがあった可能性があるとする。そうなるとたねの父豊吉が、布良に写生旅行にいく二人分の資金を出したかもしれない。

【 b.の検証 】

坂井義三郎(犀水)が黒田らの白馬会関係者や「画報社」とも交流があったので、第1回白馬賞を受賞した東京美術学校学生青木繁と繋がりがあったという可能性はどうであろうか。

その理由の一つは、坂井が「河北」調査研究で指摘した朝日新聞(1904(明治37)年10月10日付)の日曜評論では「白馬会第8回展」の青木作品を高く評価している。この坂井の背後に「画報社」に勤めていた「日箇原繁」という編集者がいたとすると、もし青木らが布良に写生旅行に行くという話をした時に、義兄小谷喜録を紹介したとも考えられる。

絵画と文学との積極的接触や交流をはかる雑誌(月刊・菊判・各巻約50頁)として1905(明治38)年4月に『月刊スケッチ』が創刊されたものの、翌年3月に第12号で廃刊となった。この『月刊スケッチ』創刊号の発行兼編集人が「日箇原繁」であり、巌谷小波・徳富蘆花・正宗白鳥などの著名人が賛助し、この時代を代表する泉鏡花・広津柳浪・徳田秋声・島崎藤村・国木田独歩などが寄稿した。

 

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