青木繁「海の幸」誕生と日露戦争の時代 4.日露戦争のなかの布良の「海軍望楼」と「帝国水難救済会布良救難所」 (1)東京湾要塞の最前線「布良海軍望楼」      愛沢伸雄

 青木繁「海の幸」誕生と日露戦争の時代                                     

                                                       愛沢伸雄(NPO法人安房文化遺産フォーラム代表) 

 

4.日露戦争のなかの布良の「海軍望楼」と「帝国水難救済会布良救難所」

(1)東京湾要塞の最前線「布良海軍望楼」

①「海軍(海岸)望楼」誕生と東京湾要塞の建設をみる

要塞とは、敵軍の侵入を防ぐため要害の地に築いた砦のことで、敵の攻撃に対し一定の地域の強化した軍事手段を要塞化といい、防御のための砲台などの施設が戦術的に配備された。近代の国境要塞は敵侵入を阻むだけでなく、侵略を容易にする目的でも建設された。また海峡・湾口部置かれた沿岸要塞は、敵艦艇の行動を制限するとともに侵入を阻止する軍事拠点となった。

そのなかで沿岸要所に置かれたのが海岸望楼であり、その後「海軍望楼」と改称され、海上の見張りや周辺を航行する艦船との通信をはじめ、気象観測しての通報・天気予報・暴風警報、そして海難報告などの任務にあたった。

日本では、明治期に主要海峡や港湾の防衛のための大規模な沿岸要塞建設が開始され、東京湾岸にある観音崎と富津で砲台構築が始まった。日清戦争後では海防充実の一環として、日露戦争前後には対外侵略の戦略拠点として沿岸要塞は積極的に位置付けられる。なかでも1880(明治13)年に起工され、1932(昭和7)年に完成した永久要塞が一等要塞となる「東京湾要塞」である。

この要塞は富津岬と観音崎との間に3つの海堡を置き、三浦半島側では横須賀軍港地区をはじめ、走水・観音崎、久里浜、三崎に、また房総半島南部の東京湾岸側には、富津をはじめ、金谷や大房岬、館山の洲崎などに東京湾口全域を射程に入れた多数の砲台を配備された。日清戦争の勃発により全国規模で要塞建設がすすみ、日露戦争ではウラジオ艦隊が津軽海峡を通過し、東京湾口部に現れたことで、帝都防衛の前線として東京湾要塞が一段と重要視された。

ところで、1893(明治28)年の「要塞司令部条例」によって、永久防御工事を施し守備している場所は「要塞」とされ、その周辺一帯を「要塞地帯」とした。1899(明治32)年には、軍事機密保持と防御営造物の保安のために、「要塞地帯法」と「軍機保護法」が公布され、指定された区域での水陸の形状を測量・撮影・模写することや、地表の高低の土木工事、築造物の増改築などには、要塞司令部からの許可がもとめられた。防御営造物から250間(約455m)以内の要塞地帯第一区では、一般人の出入りが禁止され、地帯内の憲兵隊や特高警察によって、防諜上住民が厳しく監視された。また要塞地帯の地図は一般には公表されず、重要地点を空白にしていた。とくに戦時になると防諜(スパイ防止)法規が強化されていく。

なお「要塞地帯法」は陸軍省海軍省告示によりおこなわれ、海軍省は要塞区域を拡張し、とくに東京湾要塞地帯では、要塞は主に陸軍東京湾守備兵団に属し、要塞の海域部は海軍横須賀鎮守府管轄であり、なかでも東京湾口や横須賀軍港の防御は、陸海軍が連携して帝都防衛にあたるとしていた。布良に明治期に「海岸望楼」をおかれるが、その場所と設立過程が不明であった。

近年、国会図書館(アジア歴史資料センター)資料が見つかったので紹介する。

    

② 年表:「布良海軍(海岸)望楼」の建設と東京湾要塞

1891(明治24)年4月    布良望楼より館山電信局間…電信架設と線路実地測量開始

      7月    布良大山にある「布良字鳶巣」の土地所有者6名から461坪の買上げする

1892(明治25)年7月   鳶ノ巣…望楼へ電信線架設…館山郵便電信局電柱添架

9月     布良望楼信号棹修理経費

1894(明治26)年8月    布良望楼…電気室其他付属工事費増額。

海岸望楼軍事電信通信開始…安房国布良

1894(明治27)年6月30日 勅令第77号「海岸望楼条例」海軍は日清戦争開戦直前に全国の要衝に海岸望楼を設置し、陸上と艦船との信号及び海上見張り・気象観測などを担当。

 鎮守府参謀長の指揮下で望楼監督官の監督によって、各海岸望楼は望楼長・ 望楼手2名で沿岸監視体制をおこなう。

       8月5日 横須賀鎮守府所管 

          NO.1「布良」(~1921(大正10)年)2.観音崎 3.剣崎 4.長津呂

                                  呉鎮守府:4か所・佐世保鎮守府:7か所 全国15か所

8月6日   通達「海岸望楼軍用電信取扱規則」

※ 横須賀水雷隊攻撃部(水雷艇7隻)が配備され、警備範囲は布良から長津呂を結ぶ線の以内(布良港は寄港地となる)

1895(明治28)年3月30日 勅令第39号「要塞司令部条例」制定

4月    布良望楼へ風信器・風力計台・百葉箱・雨量計・晴雨計置所

4月15日  陸軍大臣山県有朋「軍備拡充意見書」奏上

4月17日  日清講和条約(下関条約)

4月18日  独仏露3か国、清国へ遼東半島返還を勧告(三国干渉)

10月    5個師団を増設し、13個師団体制。

※ 1897(明治30)年にイタリア人マルコニーが無線電信会社をつくり英仏間の通信に成功の報に接すると、逓信省はすぐに研究に着手して通信試験に成功。1903(明治36)年には長崎台湾間の通信に成功。

(海底ケーブルの敷設と無線通信が対露戦へ向けて最重要戦略)

1996(明治29)年12月    海軍大臣西郷従道と逓信大臣野村靖宛に富崎村人民総代藤森樹益と村長神田吉右衛門名の連名で「海軍望楼電信利用之義ニ付請願」を提出。

(別項で『請願』内容の概要を記載している)

1897(明治30)年10月  富崎村からの『請願書』が受け入れられ布良海岸望楼においての公衆電報取扱は、戦時及び演習中を除き、通信取扱は午前6時より午後8時までとする。

12月   「海岸監視哨勤務令」陸軍が戦時または事変に海岸の要衝地点に監視哨を設置し、敵情を監視し、海岸を警戒するため。

敵の上陸が想定される場所を全国65か所指定。近衛師団が湊町・銚子・勝浦湾、そして「館山湾」に監視哨 (師団長に隷する哨長以下監視員7名と通信員2名 で編成)

1898(明治31)年9月        望楼気象通報開始。9月15日より中央気象台と気象通報実施…東京及安房国館山間国用電線無料…

1899(明治32)年1月  布良望楼電報受付所新営

    7月15日  軍事上の秘密、いわゆる軍事機密(軍機)を保護する目的「軍機保護法」公布

1900(明治33)年9月1日 海岸望楼は海軍望楼と改称。戦時だけでなく平時にも常設。

海軍省告示  「海軍望楼ニ於テ海難船ヲ発見シタルトキ通報方及其ノ附近通過ノ船舶心得方ノ件」:海軍望楼ニ於テ海難船舶ヲ発見シタルトキハ…附近水難救済会ノ 救難所ニ通報ス。海軍望楼附近ヲ通過スル船舶ハ万国船舶信号旗ヲ以テ其 ノ信号符号ヲ表示スヘシ

内令「海軍望楼ニ関スル特定事項ノ件」(20か所)の海軍望楼の位置は、軍事上成るべく秘密に保つ必要。

1903(明治36)年3月13日   官報第5905号逓信省告示「布良海軍望楼電信取扱所での公衆電報の取扱を廃止」

6月~12月  軍艦通信装置改造及び増設。無線通信の試験

1904(明治37)年1月22日 勅令「防御海面令」:国土の重要沿岸海面を指定して船舶の通行を制限または禁止できる。(開戦当初沿岸3海里以内 11月27日からは沿岸6海里)

指定告示第1号「東京湾口」指定日2月10日

 

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