青木繁「海の幸」誕生と日露戦争の時代  4.日露戦争のなかの布良の「海軍望楼」と「帝国水難救済会布良救難所」   (2) 日露戦争勃発と要衝の地「布良」での動き    愛沢伸雄

 青木繁「海の幸」誕生と日露戦争の時代                                     

                                                       愛沢伸雄(NPO法人安房文化遺産フォーラム代表) 

4.日露戦争のなかの布良の「海軍望楼」と「帝国水難救済会布良救難所」

(2) 日露戦争勃発と要衝の地「布良」での動き

①日露戦争の開戦

1904(明治37)年2月10日 ロシアへ宣戦布告(日露戦争の開始)

 

(小谷家所蔵)

2月11日 ロシア海軍ウラジオストク艦隊(装甲巡洋艦3隻・巡洋艦1隻を基幹)が津軽海峡西方地域に現れる。この日津軽半島沖で「名古浦丸」、4月25日には韓国元山沖「金州丸」(3967トン)、6月15日には玄海灘において「常陸丸」(6172トン)と「和泉丸」が撃沈され、「佐渡丸」が損害うける。「常陸丸」は陸軍運送船で、乗船していた約1,000名の乗組員・兵士が死亡するという大惨事となる。

(『明治期国土防衛史』より)

6月15日~7月28日ウラジオ艦隊の動き(青木繁らが布良に来た期間なので別項で取り上げる。

6月30日には韓国元山港沖に現れ艦砲射撃を行い、7月20日には津軽海峡を抜けて太平洋沿岸を南下して東京湾口に。上村彦之丞司令官指揮の第2艦隊(装甲巡洋艦「出雲」・「常盤」・「磐手」など)は、ウラジオ艦隊の追跡にあて、哨戒活動をしていたものの神出鬼没で捕捉が難しかった。

この第2艦隊が対馬の浅海湾を出港し、7月25日南九州の都井岬沖から室戸崎へ、そして「布良」付近に向かうべしとの訓令を受け、28日正午過ぎに「布良沖」に到着したが、時すでに遅くウラジオ艦隊は北に去っていたのである。

第2艦隊が到着する前の約2週間は、太平洋宇沿岸、と りわけ東京湾口部でのウラジオ艦隊のゲリラ的な動き、その通商破壊戦のなかで、「布良海軍望楼」や「布良救難所」では大変な状況下にあったといえる。その動きは派遣されていた通信員によって記事が新聞社に送られ、大きく報道された。時に号外となったこともあり世論は激昂して、第2艦隊の上村司令長官は強く批判された。

まさにこの時期に、青木ら3名は、東京湾汽船(株)汽船に霊岸島から乗船して館山に来たわけで、布良での動きを通じ砲撃音を聞いたはずで海戦の姿を感じたはずである。

1904(明治37)年8月17日 内令「海軍軍用通信所条例」軍用電信取扱所ハ作戦上必要ノ地点ニ設置シ専ラ軍用電信取扱ニ関スルコトヲ掌ル…明治三十七八年戦役ニ於ケル軍用電信取扱所…有線電信ノ設備ヲ有シタル常設望楼(32か所)及仮設望楼(12か所) 「布良」

② 布良沖のウラジオ艦隊の動きによる危機的状況

布良海軍望楼は、民間地図などに記載された軍事施設である。日露戦争が勃発して、海軍が警戒していたのは、ロシア太平洋艦隊の「ウラジオ艦隊」が、東京湾口部に侵入して沿岸部(横須賀軍港・鉄道・港湾施設)に艦砲射撃を加えると輸送関係に致命的な問題になると軍部は危惧していた。

そこで布良や長津呂海軍望楼には,東京湾口部の防御上において、最重要の役割が与えられ、とくに横須賀鎮守府では水雷隊攻撃部水雷艇7隻で湾口部海域を巡回していた。その心配が現実のものになった。

1904(明治37)年7月下旬の東京湾口部での「ウラジオ艦隊」(装甲巡洋艦ロシア(13,675トン)・グロムボイ(13,220トン)リューリック(11,690トン)の各軍艦には、8インチ(20センチ)砲4門、6インチ(15センチ)砲16門を搭載。強力な攻撃力をもっていた)の動きであった。そのときに青木繁らは布良においてどのように向きあっていたのであろうか。

2月11日 ロシア海軍ウラジオ艦隊が津軽海峡西方地域に現れる。

6月15日 ロシア太平洋艦隊の一部でウラジオストック港を根拠にしているウラジオ艦隊(巡洋艦4隻)が玄海灘で兵員を輸送中の船舶を襲撃した。その結果、「佐渡丸」(6,226トン)が大破、「常陸丸」(ひたちまる)(6,175トン)と「和泉丸」(3,967トン)が撃沈され、国民に大きな衝撃をあたえた。

7月10日 津軽海峡を西から東に通過し太平洋に出て、汽船「高島丸」(318トン)を撃沈 し続いて英国汽船「サマーラ号」(2,831トン)を臨検・解放、さらに帆船「喜寶丸」(140ン)を撃沈し、汽船「共同運輸丸」(147トン)を解放、帆船「第二北生丸」(91トン)を撃沈した。

「(東京朝日7月26日付に記載された 22日以来25日午後3時に至る迄の露艦行動」)  

7月22日  塩屋崎沖(いわき市)で独国汽船「アラビア号」(2,863トン)を拿捕して、ウラジオストックに回航。南下して房総半島を廻る。

7月24日  御前崎沖で英国汽船「ナイト・コマンダー号」を撃沈。東方に向かい伊豆半島沖で帆船「自在丸」(199トン)と帆船「福就丸」(130トン)を撃沈し、英汽船「に図南号」(2,269トン)を臨検・解放した。そして、東京湾口部を動き廻る。

7月25日 野島沖では独国汽船「テア号」(1,613トン)を撃沈し、英国汽船「カルカス号」(6,748トン)を拿捕するとともに、ウラジオストックに回航した。

その後北上し7月30日に津軽海峡を通過して、8月1日にウラジオストックに帰港した。

  

(東京朝日1904年7月26日付)

7月28日 上村彦之丞司令官指揮の第2艦隊(装甲巡洋艦「出雲」(9750トン)・「常盤」(9700トン)・「磐手」(9750トン)など)は、対馬の浅海湾を出港し、7月25日南九州の都井岬沖から室戸崎へ、そして「布良」付近に向かうべしとの訓令を受け、28日正午過ぎに「布良沖」に到着したものの、すでにウラジオ艦隊は北に去っていた。

 

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