青木繁「海の幸」誕生と日露戦争の時代  4. 日露戦争のなかの布良の「海軍望楼」と「帝国水難救済会布良救難所」(3)「帝国水難救済会布良救難所」と日露戦争     愛沢伸雄

 青木繁「海の幸」誕生と日露戦争の時代                                     

                                                       愛沢伸雄(NPO法人安房文化遺産フォーラム代表) 

4.日露戦争のなかの布良の「海軍望楼」と「帝国水難救済会布良救難所」

(3)「帝国水難救済会布良救難所」と日露戦争

① 帝国水難救済会創設と布良救難所設置の新聞報道

金刀比羅宮宮司の琴陵宥常は、洋行した黒田清隆からロシアの海難救助組織のことを聞いたことで、日本にも同様な組織が必要と私財を投じて設立に奔走した。1889(明治22)年、香川県の金刀比羅宮において「大日本帝国水難救済会」が開催され、同所には本部が置かれ、有栖川威仁中将が総裁となり、琴陵宥常は初代の会長となった。1892(明治25)年には本部が東京となり、1897(明治30)年以降は政府の資金が導入されるなかで、組織の拡充が図られ、全国の要所に救難所が整備されていった。日清戦争開戦までに10か所が設置され、日露戦争が終わる頃までには「布良救難所」をはじめ17か所が加わっていくが、日露戦争の戦時体制と連動して半官半民の公益団体は、全国的な規模になっていった。

   

「布良救難所」1903(明治36)年3月25日創立          石榑千亦     石榑の書画(小谷家所蔵)
                             
東京朝日1903年5月6日 2月15日             東京朝日1904年7月31日

 ② 戦時の布良救難所の役割と「ウラジオ艦隊」

 青木繁らが小谷家に逗留中のウラジオ艦隊の布良沖での動きに、「小谷喜録」は看守長としてどんな状況に置かれたのであろうか。 

戦時心得

一、本會救難所ハ戦時ニ於テモ平時に於ケルカ如ク施行スヘシ

二、敵國商船遭難ノ場合ハ勿論戦闘力ヲ失ヒタル軍艦ノ遭難若クハ艦員ニシテ生命ヲ喪失セントスル場合ハ直チニ之ヲ救助シ市町村役場又ハ警察署ニ引渡スヘシ

三、救難所、救難支所、見張所、救難組合附近ヲ通航スル船舶ノ擧動ニ注意シ若尋常ニ非スト認メタルトキハ直チニ最寄警察署ニ通知スヘシ

四、敵國軍艦ト認ムヘキモノノ通航ヲ認メタル時ハ直ニ左ノ事項ヲ本部へ電報シ同時ニ最寄警察署ニ通知スベシ

一、往来ノ方向 一、時刻 一、艦體ノ大小及塗色 一、掲揚シタル旗

一、檣數 一、煙突數 一、ソノ他目標トスヘキ重ナルモノ

五、天候ソノ他重要事項ハ必ズ日誌ニ記載スヘシ

 

「ウラジオ艦隊、東京湾口部・布良沖に侵入」

7月25日午後3時32分、布良救難所長発電

「当地漁船及他船の話によれば午前六時白浜沖に砲声を聞く」

7月27日午後3時50分、布良救難所長発電

「午後零時五分、一時四十五分東南方に当り砲声遥に聞ゆ」

7月27日、布良救難所長報告

「廿七日南強風海上霧あり。午前八時二本檣赤色煙筒黒色の大船東航せり。十一時頃千倉沖にて砲声聞ゆと聞けり。午後零時五分、一時四十五分東南東に当り遥に砲声を聞く。二時二十分二本檣黒色の煙筒壱本を有せる黒色の大船西行す。望楼より信号したるも遠距離又は霧の為に判明せざりしにや、之に応ぜずして去れり。四時三十分二本檣黒色の一本煙筒を有せる黒色の大船東航せり」

7月30日、布良救難所長報告

「昨夜当所にては石井所長十一時迄詰切り小職は例に依り望楼附近に出張す。十時三十分、望楼にて第二艦隊へ電報送達の為め艀雇入れ依頼に付漁船を雇入れ、組長小谷安五郎外三名望楼長と共に乗船、二十四号水雷艇に送致す。午前二時再び望楼よりの依頼により、小鷹号に送致す。五時艦隊は東南方に向ひ航行し七時十五分水雷艇隊は湾内へ向け航行せり。零時三十分頃より砲声屡々聞ゆ。二時水雷艇二隻南方に向け疾走、約二十分間を経て五隻の水雷艇続行せり。或は開戦せるならん。南方に方り砲声頻りなり。三時水雷艇は望楼と信号して湾内に向け航行し五時二十分四隻の軍艦当港沖合に見ゆ。之に依りて推考すれば、未だ開戦せざりしものの如し。曩に耳にしたる砲声は何の音なりしや疑はし。八時軍艦及水雷艇は今尚碇泊せり」

『帝国水難救済会五十年史』から日露戦争時の布良救難所活動

(「戦時下救難所ノ活動」の項の「一、救難所敵艦監視報告」 「二、戦禍に因る海難救助」から抜粋)

※  帝国水難救済会の「布良救難所」と「布良海軍望楼」との連携した取り組みがわかる。その際に布良の漁船も動員されていたことがわかる。また、布良は横須賀水雷隊特別攻撃部7隻の寄港地になったとの記載があるので、緊迫した状況はあったと思われる。

③ 軍事演習での「布良望楼」攻撃

「秋季演習報告」(明治32年12月18日)(概要)

 

午後0時53分~3時16分 水防禦網取付

午後3時30分 第1特別方畧に命令

命令(口述)

1.午後5時出艦

2.四直哨兵配備

3.明朝未明布良望楼を攻撃し、もしためすことができれば兵員を上陸して望楼を占領し敵情を得る。このために第2「カッター」を軍装して奥田大尉の指揮で、特に水雷兵4名及び必要な電気具を携帯…

(略)

午後7時31分 布良望楼を北方約2哩に望む地点、望楼の砲撃を開始

午後8時    砲撃を止め第2「カッター」を軍装し望楼占領のため派遣

午後10時19分 派遣隊望楼に達し軍艦旗を掲げて占領を報す

午後11時    派遣隊帰艦し報告する(口述)

1.敵の妨害を受けることなく布良村海岸に上陸し直ちに望楼に至る

2.人員はすでに逃亡したあとであった。

逓信大臣発 陸軍大臣宛

青木らは布良が軍事演習の地であったことは、まったく知 らなかったであろう。また、地域の人びとも軍や 警察からの指導で他言しなかったと思われる。「布良海岸への上陸」とは、どこを指しているかはわからないが、布良望楼の攻撃とすると「阿由戸浜」であったかもしれない。

陸軍管轄の「東京湾要塞」と海軍管轄の「布良望楼」との連携を示す資料はあまりない。だが、次のような 資料があったので、紹介した。これは緊急用に架設してある軍用電線が不用になったものを平時使用する場合、逓信省から要請があれば、保管転換をするという、陸軍省からの回答書類である。

この文書に「…此電線は東京湾要塞緊急警備ニ際シ…」となっており、付いている地図には陸軍管轄「軍用電線」が布良海軍望楼までは引かれている。この資料により、次項で述べる「軍機保護法」との関係では、東京湾要塞関連施設との繋がりがあれば、「沿岸警備の地区・地点及び戦闘に関することに抵触していることになる。

この写真は大正期の布良海岸で撮影したものと聞いている。(撮影者や撮影日時は不明であるが、布良の黒川写真館にあったといわれる)。軍人がスコップや旗をもっているので、災害復旧のために布良にきた陸軍部隊かもしれない。(関東大震災時か)

④ 戦時下の「郵便局」の役割

青木繁は、明治37年8月22日布良郵便局から梅野満雄宛に絵入りの書簡を出している。日露戦争の前夜、公衆電報をめぐって布良の人びとと海軍望楼との間で重要な変更があり、電報や手紙についての取扱では、布良郵便局の役割が高まっていった。

1903(明治36)年3月13日官報第5905号では、逓信省告示第159号で「…安房國布良海軍望楼電信取扱所ニ於ル公衆電報ノ取扱ヲ廃止ス 逓信大臣子爵芳川顕正」とされ、その隣の欄に逓信省告示第158号があり、「布良…各郵便局ヲ三等郵便電信局トス其名稱及電報ノ取扱ニ関スル制限左ノ如シ 逓信大臣子爵芳川顕正 一、名稱 布良郵便電報局 一、電報ノ取扱ニ関スル制限 一取扱フヘキ電報 内外和文電報」とあり、2つの逓信省告示が対で記載。

1899(明治32)年7月15日、軍事上の秘密、いわゆる軍事機密(軍機)を保護する目的で「軍機保護法」公布され、「艦船艦隊軍隊ノ進退其ノ他軍機軍略ニ関スル事項」との記載だけで、その細目は示されなかった。

1904(明治37)年1月5日になって陸海軍省は、省令をもって軍機軍略を新聞・雑誌に掲載することを禁止にしている。陸軍省は1月12日に「新聞・雑誌記事取締り」に関して地方機関に注意を与え、左のような軍機漏洩を防止する目的を以て「禁止事項標準」を示したのである。

日本の機密保護関連の法律は、軍事上の秘密の定義が曖昧であったので、当局の恣意的な取り締まりが可能であった。当時、軍機保護法に関わる裁判の判決でも、何が軍機事項であるかは時と場所によって異なるとし、時々の当局の取り締まりに判断を委ねていた。つまり、軍が秘密というならそれは秘密であるとの論理であった。

戦時であるので、青木らは海岸において軍事施設などの写真やスケッチは、当然禁止されたといえる。このなかで、富崎村にとって重要なのが、十番目の 「沿岸警備の地区・地点及戦闘に関すること」であり、地方では警察がその任にあたった。

「帝国水難救済会」の「戦時心得」では「三、救難所、  救難支所、見張所、救難組合附近ヲ通航スル船舶ノ擧動ニ注意シ若尋常ニ非スト認メタルトキハ直チニ最寄警察署ニ通知スヘシ」とあり、その警察的な役割の

実質的なトップが小谷喜録であったということである。

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