青木繁「海の幸」誕生と日露戦争の時代  4. 日露戦争のなかの布良の「海軍望楼」と「帝国水難救済会布良救難所」(3)「帝国水難救済会布良救難所」と日露戦争     愛沢伸雄

 青木繁「海の幸」誕生と日露戦争の時代                                     

                                                       愛沢伸雄(NPO法人安房文化遺産フォーラム代表) 

4.日露戦争のなかの布良の「海軍望楼」と「帝国水難救済会布良救難所」

(3)「帝国水難救済会布良救難所」と日露戦争

① 帝国水難救済会創設と布良救難所設置の新聞報道

金刀比羅宮宮司の琴陵宥常は、洋行した黒田清隆からロシアの海難救助組織のことを聞いたことで、日本にも同様な組織が必要と私財を投じて設立に奔走した。1889(明治22)年、香川県の金刀比羅宮において「大日本帝国水難救済会」が開催され、同所には本部が置かれ、有栖川威仁中将が総裁となり、琴陵宥常は初代の会長となった。1892(明治25)年には本部が東京となり、1897(明治30)年以降は政府の資金が導入されるなかで、組織の拡充が図られ、全国の要所に救難所が整備されていった。日清戦争開戦までに10か所が設置され、日露戦争が終わる頃までには「布良救難所」をはじめ17か所が加わっていくが、日露戦争の戦時体制と連動して半官半民の公益団体は、全国的な規模になっていった。

   

「布良救難所」1903(明治36)年3月25日創立          石榑千亦     石榑の書画(小谷家所蔵)
                             
東京朝日1903年5月6日 2月15日             東京朝日1904年7月31日

 ② 戦時の布良救難所の役割と「ウラジオ艦隊」

 青木繁らが小谷家に逗留中のウラジオ艦隊の布良沖での動きに、「小谷喜録」は看守長としてどんな状況に置かれたのであろうか。 

戦時心得

一、本會救難所ハ戦時ニ於テモ平時に於ケルカ如ク施行スヘシ

二、敵國商船遭難ノ場合ハ勿論戦闘力ヲ失ヒタル軍艦ノ遭難若クハ艦員ニシテ生命ヲ喪失セントスル場合ハ直チニ之ヲ救助シ市町村役場又ハ警察署ニ引渡スヘシ

三、救難所、救難支所、見張所、救難組合附近ヲ通航スル船舶ノ擧動ニ注意シ若尋常ニ非スト認メタルトキハ直チニ最寄警察署ニ通知スヘシ

四、敵國軍艦ト認ムヘキモノノ通航ヲ認メタル時ハ直ニ左ノ事項ヲ本部へ電報シ同時ニ最寄警察署ニ通知スベシ

一、往来ノ方向 一、時刻 一、艦體ノ大小及塗色 一、掲揚シタル旗

一、檣數 一、煙突數 一、ソノ他目標トスヘキ重ナルモノ

五、天候ソノ他重要事項ハ必ズ日誌ニ記載スヘシ

 

「ウラジオ艦隊、東京湾口部・布良沖に侵入」

7月25日午後3時32分、布良救難所長発電

「当地漁船及他船の話によれば午前六時白浜沖に砲声を聞く」

7月27日午後3時50分、布良救難所長発電

「午後零時五分、一時四十五分東南方に当り砲声遥に聞ゆ」

7月27日、布良救難所長報告

「廿七日南強風海上霧あり。午前八時二本檣赤色煙筒黒色の大船東航せり。十一時頃千倉沖にて砲声聞ゆと聞けり。午後零時五分、一時四十五分東南東に当り遥に砲声を聞く。二時二十分二本檣黒色の煙筒壱本を有せる黒色の大船西行す。望楼より信号したるも遠距離又は霧の為に判明せざりしにや、之に応ぜずして去れり。四時三十分二本檣黒色の一本煙筒を有せる黒色の大船東航せり」

7月30日、布良救難所長報告

「昨夜当所にては石井所長十一時迄詰切り小職は例に依り望楼附近に出張す。十時三十分、望楼にて第二艦隊へ電報送達の為め艀雇入れ依頼に付漁船を雇入れ、組長小谷安五郎外三名望楼長と共に乗船、二十四号水雷艇に送致す。午前二時再び望楼よりの依頼により、小鷹号に送致す。五時艦隊は東南方に向ひ航行し七時十五分水雷艇隊は湾内へ向け航行せり。零時三十分頃より砲声屡々聞ゆ。二時水雷艇二隻南方に向け疾走、約二十分間を経て五隻の水雷艇続行せり。或は開戦せるならん。南方に方り砲声頻りなり。三時水雷艇は望楼と信号して湾内に向け航行し五時二十分四隻の軍艦当港沖合に見ゆ。之に依りて推考すれば、未だ開戦せざりしものの如し。曩に耳にしたる砲声は何の音なりしや疑はし。八時軍艦及水雷艇は今尚碇泊せり」

『帝国水難救済会五十年史』から日露戦争時の布良救難所活動

(「戦時下救難所ノ活動」の項の「一、救難所敵艦監視報告」 「二、戦禍に因る海難救助」から抜粋)

※  帝国水難救済会の「布良救難所」と「布良海軍望楼」との連携した取り組みがわかる。その際に布良の漁船も動員されていたことがわかる。また、布良は横須賀水雷隊特別攻撃部7隻の寄港地になったとの記載があるので、緊迫した状況はあったと思われる。

③ 軍事演習での「布良望楼」攻撃

「秋季演習報告」(明治32年12月18日)(概要)

 

午後0時53分~3時16分 水防禦網取付

午後3時30分 第1特別方畧に命令

命令(口述)

1.午後5時出艦

2.四直哨兵配備

3.明朝未明布良望楼を攻撃し、もしためすことができれば兵員を上陸して望楼を占領し敵情を得る。このために第2「カッター」を軍装して奥田大尉の指揮で、特に水雷兵4名及び必要な電気具を携帯…

(略)

午後7時31分 布良望楼を北方約2哩に望む地点、望楼の砲撃を開始

午後8時    砲撃を止め第2「カッター」を軍装し望楼占領のため派遣

午後10時19分 派遣隊望楼に達し軍艦旗を掲げて占領を報す

午後11時    派遣隊帰艦し報告する(口述)

1.敵の妨害を受けることなく布良村海岸に上陸し直ちに望楼に至る

2.人員はすでに逃亡したあとであった。

逓信大臣発 陸軍大臣宛

青木らは布良が軍事演習の地であったことは、まったく知 らなかったであろう。また、地域の人びとも軍や 警察からの指導で他言しなかったと思われる。「布良海岸への上陸」とは、どこを指しているかはわからないが、布良望楼の攻撃とすると「阿由戸浜」であったかもしれない。

陸軍管轄の「東京湾要塞」と海軍管轄の「布良望楼」との連携を示す資料はあまりない。だが、次のような 資料があったので、紹介した。これは緊急用に架設してある軍用電線が不用になったものを平時使用する場合、逓信省から要請があれば、保管転換をするという、陸軍省からの回答書類である。

この文書に「…此電線は東京湾要塞緊急警備ニ際シ…」となっており、付いている地図には陸軍管轄「軍用電線」が布良海軍望楼までは引かれている。この資料により、次項で述べる「軍機保護法」との関係では、東京湾要塞関連施設との繋がりがあれば、「沿岸警備の地区・地点及び戦闘に関することに抵触していることになる。

この写真は大正期の布良海岸で撮影したものと聞いている。(撮影者や撮影日時は不明であるが、布良の黒川写真館にあったといわれる)。軍人がスコップや旗をもっているので、災害復旧のために布良にきた陸軍部隊かもしれない。(関東大震災時か)

④ 戦時下の「郵便局」の役割

青木繁は、明治37年8月22日布良郵便局から梅野満雄宛に絵入りの書簡を出している。日露戦争の前夜、公衆電報をめぐって布良の人びとと海軍望楼との間で重要な変更があり、電報や手紙についての取扱では、布良郵便局の役割が高まっていった。

1903(明治36)年3月13日官報第5905号では、逓信省告示第159号で「…安房國布良海軍望楼電信取扱所ニ於ル公衆電報ノ取扱ヲ廃止ス 逓信大臣子爵芳川顕正」とされ、その隣の欄に逓信省告示第158号があり、「布良…各郵便局ヲ三等郵便電信局トス其名稱及電報ノ取扱ニ関スル制限左ノ如シ 逓信大臣子爵芳川顕正 一、名稱 布良郵便電報局 一、電報ノ取扱ニ関スル制限 一取扱フヘキ電報 内外和文電報」とあり、2つの逓信省告示が対で記載。

1899(明治32)年7月15日、軍事上の秘密、いわゆる軍事機密(軍機)を保護する目的で「軍機保護法」公布され、「艦船艦隊軍隊ノ進退其ノ他軍機軍略ニ関スル事項」との記載だけで、その細目は示されなかった。

1904(明治37)年1月5日になって陸海軍省は、省令をもって軍機軍略を新聞・雑誌に掲載することを禁止にしている。陸軍省は1月12日に「新聞・雑誌記事取締り」に関して地方機関に注意を与え、左のような軍機漏洩を防止する目的を以て「禁止事項標準」を示したのである。

日本の機密保護関連の法律は、軍事上の秘密の定義が曖昧であったので、当局の恣意的な取り締まりが可能であった。当時、軍機保護法に関わる裁判の判決でも、何が軍機事項であるかは時と場所によって異なるとし、時々の当局の取り締まりに判断を委ねていた。つまり、軍が秘密というならそれは秘密であるとの論理であった。

戦時であるので、青木らは海岸において軍事施設などの写真やスケッチは、当然禁止されたといえる。このなかで、富崎村にとって重要なのが、十番目の 「沿岸警備の地区・地点及戦闘に関すること」であり、地方では警察がその任にあたった。

「帝国水難救済会」の「戦時心得」では「三、救難所、  救難支所、見張所、救難組合附近ヲ通航スル船舶ノ擧動ニ注意シ若尋常ニ非スト認メタルトキハ直チニ最寄警察署ニ通知スヘシ」とあり、その警察的な役割の

実質的なトップが小谷喜録であったということである。

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青木繁「海の幸」誕生と日露戦争の時代  4.日露戦争のなかの布良の「海軍望楼」と「帝国水難救済会布良救難所」   (2) 日露戦争勃発と要衝の地「布良」での動き    愛沢伸雄

 青木繁「海の幸」誕生と日露戦争の時代                                     

                                                       愛沢伸雄(NPO法人安房文化遺産フォーラム代表) 

4.日露戦争のなかの布良の「海軍望楼」と「帝国水難救済会布良救難所」

(2) 日露戦争勃発と要衝の地「布良」での動き

①日露戦争の開戦

1904(明治37)年2月10日 ロシアへ宣戦布告(日露戦争の開始)

 

(小谷家所蔵)

2月11日 ロシア海軍ウラジオストク艦隊(装甲巡洋艦3隻・巡洋艦1隻を基幹)が津軽海峡西方地域に現れる。この日津軽半島沖で「名古浦丸」、4月25日には韓国元山沖「金州丸」(3967トン)、6月15日には玄海灘において「常陸丸」(6172トン)と「和泉丸」が撃沈され、「佐渡丸」が損害うける。「常陸丸」は陸軍運送船で、乗船していた約1,000名の乗組員・兵士が死亡するという大惨事となる。

(『明治期国土防衛史』より)

6月15日~7月28日ウラジオ艦隊の動き(青木繁らが布良に来た期間なので別項で取り上げる。

6月30日には韓国元山港沖に現れ艦砲射撃を行い、7月20日には津軽海峡を抜けて太平洋沿岸を南下して東京湾口に。上村彦之丞司令官指揮の第2艦隊(装甲巡洋艦「出雲」・「常盤」・「磐手」など)は、ウラジオ艦隊の追跡にあて、哨戒活動をしていたものの神出鬼没で捕捉が難しかった。

この第2艦隊が対馬の浅海湾を出港し、7月25日南九州の都井岬沖から室戸崎へ、そして「布良」付近に向かうべしとの訓令を受け、28日正午過ぎに「布良沖」に到着したが、時すでに遅くウラジオ艦隊は北に去っていたのである。

第2艦隊が到着する前の約2週間は、太平洋宇沿岸、と りわけ東京湾口部でのウラジオ艦隊のゲリラ的な動き、その通商破壊戦のなかで、「布良海軍望楼」や「布良救難所」では大変な状況下にあったといえる。その動きは派遣されていた通信員によって記事が新聞社に送られ、大きく報道された。時に号外となったこともあり世論は激昂して、第2艦隊の上村司令長官は強く批判された。

まさにこの時期に、青木ら3名は、東京湾汽船(株)汽船に霊岸島から乗船して館山に来たわけで、布良での動きを通じ砲撃音を聞いたはずで海戦の姿を感じたはずである。

1904(明治37)年8月17日 内令「海軍軍用通信所条例」軍用電信取扱所ハ作戦上必要ノ地点ニ設置シ専ラ軍用電信取扱ニ関スルコトヲ掌ル…明治三十七八年戦役ニ於ケル軍用電信取扱所…有線電信ノ設備ヲ有シタル常設望楼(32か所)及仮設望楼(12か所) 「布良」

② 布良沖のウラジオ艦隊の動きによる危機的状況

布良海軍望楼は、民間地図などに記載された軍事施設である。日露戦争が勃発して、海軍が警戒していたのは、ロシア太平洋艦隊の「ウラジオ艦隊」が、東京湾口部に侵入して沿岸部(横須賀軍港・鉄道・港湾施設)に艦砲射撃を加えると輸送関係に致命的な問題になると軍部は危惧していた。

そこで布良や長津呂海軍望楼には,東京湾口部の防御上において、最重要の役割が与えられ、とくに横須賀鎮守府では水雷隊攻撃部水雷艇7隻で湾口部海域を巡回していた。その心配が現実のものになった。

1904(明治37)年7月下旬の東京湾口部での「ウラジオ艦隊」(装甲巡洋艦ロシア(13,675トン)・グロムボイ(13,220トン)リューリック(11,690トン)の各軍艦には、8インチ(20センチ)砲4門、6インチ(15センチ)砲16門を搭載。強力な攻撃力をもっていた)の動きであった。そのときに青木繁らは布良においてどのように向きあっていたのであろうか。

2月11日 ロシア海軍ウラジオ艦隊が津軽海峡西方地域に現れる。

6月15日 ロシア太平洋艦隊の一部でウラジオストック港を根拠にしているウラジオ艦隊(巡洋艦4隻)が玄海灘で兵員を輸送中の船舶を襲撃した。その結果、「佐渡丸」(6,226トン)が大破、「常陸丸」(ひたちまる)(6,175トン)と「和泉丸」(3,967トン)が撃沈され、国民に大きな衝撃をあたえた。

7月10日 津軽海峡を西から東に通過し太平洋に出て、汽船「高島丸」(318トン)を撃沈 し続いて英国汽船「サマーラ号」(2,831トン)を臨検・解放、さらに帆船「喜寶丸」(140ン)を撃沈し、汽船「共同運輸丸」(147トン)を解放、帆船「第二北生丸」(91トン)を撃沈した。

「(東京朝日7月26日付に記載された 22日以来25日午後3時に至る迄の露艦行動」)  

7月22日  塩屋崎沖(いわき市)で独国汽船「アラビア号」(2,863トン)を拿捕して、ウラジオストックに回航。南下して房総半島を廻る。

7月24日  御前崎沖で英国汽船「ナイト・コマンダー号」を撃沈。東方に向かい伊豆半島沖で帆船「自在丸」(199トン)と帆船「福就丸」(130トン)を撃沈し、英汽船「に図南号」(2,269トン)を臨検・解放した。そして、東京湾口部を動き廻る。

7月25日 野島沖では独国汽船「テア号」(1,613トン)を撃沈し、英国汽船「カルカス号」(6,748トン)を拿捕するとともに、ウラジオストックに回航した。

その後北上し7月30日に津軽海峡を通過して、8月1日にウラジオストックに帰港した。

  

(東京朝日1904年7月26日付)

7月28日 上村彦之丞司令官指揮の第2艦隊(装甲巡洋艦「出雲」(9750トン)・「常盤」(9700トン)・「磐手」(9750トン)など)は、対馬の浅海湾を出港し、7月25日南九州の都井岬沖から室戸崎へ、そして「布良」付近に向かうべしとの訓令を受け、28日正午過ぎに「布良沖」に到着したものの、すでにウラジオ艦隊は北に去っていた。

 

青木繁「海の幸」誕生と日露戦争の時代 4.日露戦争のなかの布良の「海軍望楼」と「帝国水難救済会布良救難所」 (1)東京湾要塞の最前線「布良海軍望楼」      愛沢伸雄

 青木繁「海の幸」誕生と日露戦争の時代                                     

                                                       愛沢伸雄(NPO法人安房文化遺産フォーラム代表) 

 

4.日露戦争のなかの布良の「海軍望楼」と「帝国水難救済会布良救難所」

(1)東京湾要塞の最前線「布良海軍望楼」

①「海軍(海岸)望楼」誕生と東京湾要塞の建設をみる

要塞とは、敵軍の侵入を防ぐため要害の地に築いた砦のことで、敵の攻撃に対し一定の地域の強化した軍事手段を要塞化といい、防御のための砲台などの施設が戦術的に配備された。近代の国境要塞は敵侵入を阻むだけでなく、侵略を容易にする目的でも建設された。また海峡・湾口部置かれた沿岸要塞は、敵艦艇の行動を制限するとともに侵入を阻止する軍事拠点となった。

そのなかで沿岸要所に置かれたのが海岸望楼であり、その後「海軍望楼」と改称され、海上の見張りや周辺を航行する艦船との通信をはじめ、気象観測しての通報・天気予報・暴風警報、そして海難報告などの任務にあたった。

日本では、明治期に主要海峡や港湾の防衛のための大規模な沿岸要塞建設が開始され、東京湾岸にある観音崎と富津で砲台構築が始まった。日清戦争後では海防充実の一環として、日露戦争前後には対外侵略の戦略拠点として沿岸要塞は積極的に位置付けられる。なかでも1880(明治13)年に起工され、1932(昭和7)年に完成した永久要塞が一等要塞となる「東京湾要塞」である。

この要塞は富津岬と観音崎との間に3つの海堡を置き、三浦半島側では横須賀軍港地区をはじめ、走水・観音崎、久里浜、三崎に、また房総半島南部の東京湾岸側には、富津をはじめ、金谷や大房岬、館山の洲崎などに東京湾口全域を射程に入れた多数の砲台を配備された。日清戦争の勃発により全国規模で要塞建設がすすみ、日露戦争ではウラジオ艦隊が津軽海峡を通過し、東京湾口部に現れたことで、帝都防衛の前線として東京湾要塞が一段と重要視された。

ところで、1893(明治28)年の「要塞司令部条例」によって、永久防御工事を施し守備している場所は「要塞」とされ、その周辺一帯を「要塞地帯」とした。1899(明治32)年には、軍事機密保持と防御営造物の保安のために、「要塞地帯法」と「軍機保護法」が公布され、指定された区域での水陸の形状を測量・撮影・模写することや、地表の高低の土木工事、築造物の増改築などには、要塞司令部からの許可がもとめられた。防御営造物から250間(約455m)以内の要塞地帯第一区では、一般人の出入りが禁止され、地帯内の憲兵隊や特高警察によって、防諜上住民が厳しく監視された。また要塞地帯の地図は一般には公表されず、重要地点を空白にしていた。とくに戦時になると防諜(スパイ防止)法規が強化されていく。

なお「要塞地帯法」は陸軍省海軍省告示によりおこなわれ、海軍省は要塞区域を拡張し、とくに東京湾要塞地帯では、要塞は主に陸軍東京湾守備兵団に属し、要塞の海域部は海軍横須賀鎮守府管轄であり、なかでも東京湾口や横須賀軍港の防御は、陸海軍が連携して帝都防衛にあたるとしていた。布良に明治期に「海岸望楼」をおかれるが、その場所と設立過程が不明であった。

近年、国会図書館(アジア歴史資料センター)資料が見つかったので紹介する。

    

② 年表:「布良海軍(海岸)望楼」の建設と東京湾要塞

1891(明治24)年4月    布良望楼より館山電信局間…電信架設と線路実地測量開始

      7月    布良大山にある「布良字鳶巣」の土地所有者6名から461坪の買上げする

1892(明治25)年7月   鳶ノ巣…望楼へ電信線架設…館山郵便電信局電柱添架

9月     布良望楼信号棹修理経費

1894(明治26)年8月    布良望楼…電気室其他付属工事費増額。

海岸望楼軍事電信通信開始…安房国布良

1894(明治27)年6月30日 勅令第77号「海岸望楼条例」海軍は日清戦争開戦直前に全国の要衝に海岸望楼を設置し、陸上と艦船との信号及び海上見張り・気象観測などを担当。

 鎮守府参謀長の指揮下で望楼監督官の監督によって、各海岸望楼は望楼長・ 望楼手2名で沿岸監視体制をおこなう。

       8月5日 横須賀鎮守府所管 

          NO.1「布良」(~1921(大正10)年)2.観音崎 3.剣崎 4.長津呂

                                  呉鎮守府:4か所・佐世保鎮守府:7か所 全国15か所

8月6日   通達「海岸望楼軍用電信取扱規則」

※ 横須賀水雷隊攻撃部(水雷艇7隻)が配備され、警備範囲は布良から長津呂を結ぶ線の以内(布良港は寄港地となる)

1895(明治28)年3月30日 勅令第39号「要塞司令部条例」制定

4月    布良望楼へ風信器・風力計台・百葉箱・雨量計・晴雨計置所

4月15日  陸軍大臣山県有朋「軍備拡充意見書」奏上

4月17日  日清講和条約(下関条約)

4月18日  独仏露3か国、清国へ遼東半島返還を勧告(三国干渉)

10月    5個師団を増設し、13個師団体制。

※ 1897(明治30)年にイタリア人マルコニーが無線電信会社をつくり英仏間の通信に成功の報に接すると、逓信省はすぐに研究に着手して通信試験に成功。1903(明治36)年には長崎台湾間の通信に成功。

(海底ケーブルの敷設と無線通信が対露戦へ向けて最重要戦略)

1996(明治29)年12月    海軍大臣西郷従道と逓信大臣野村靖宛に富崎村人民総代藤森樹益と村長神田吉右衛門名の連名で「海軍望楼電信利用之義ニ付請願」を提出。

(別項で『請願』内容の概要を記載している)

1897(明治30)年10月  富崎村からの『請願書』が受け入れられ布良海岸望楼においての公衆電報取扱は、戦時及び演習中を除き、通信取扱は午前6時より午後8時までとする。

12月   「海岸監視哨勤務令」陸軍が戦時または事変に海岸の要衝地点に監視哨を設置し、敵情を監視し、海岸を警戒するため。

敵の上陸が想定される場所を全国65か所指定。近衛師団が湊町・銚子・勝浦湾、そして「館山湾」に監視哨 (師団長に隷する哨長以下監視員7名と通信員2名 で編成)

1898(明治31)年9月        望楼気象通報開始。9月15日より中央気象台と気象通報実施…東京及安房国館山間国用電線無料…

1899(明治32)年1月  布良望楼電報受付所新営

    7月15日  軍事上の秘密、いわゆる軍事機密(軍機)を保護する目的「軍機保護法」公布

1900(明治33)年9月1日 海岸望楼は海軍望楼と改称。戦時だけでなく平時にも常設。

海軍省告示  「海軍望楼ニ於テ海難船ヲ発見シタルトキ通報方及其ノ附近通過ノ船舶心得方ノ件」:海軍望楼ニ於テ海難船舶ヲ発見シタルトキハ…附近水難救済会ノ 救難所ニ通報ス。海軍望楼附近ヲ通過スル船舶ハ万国船舶信号旗ヲ以テ其 ノ信号符号ヲ表示スヘシ

内令「海軍望楼ニ関スル特定事項ノ件」(20か所)の海軍望楼の位置は、軍事上成るべく秘密に保つ必要。

1903(明治36)年3月13日   官報第5905号逓信省告示「布良海軍望楼電信取扱所での公衆電報の取扱を廃止」

6月~12月  軍艦通信装置改造及び増設。無線通信の試験

1904(明治37)年1月22日 勅令「防御海面令」:国土の重要沿岸海面を指定して船舶の通行を制限または禁止できる。(開戦当初沿岸3海里以内 11月27日からは沿岸6海里)

指定告示第1号「東京湾口」指定日2月10日

 

青木繁「海の幸」誕生と日露戦争の時代   3.青木繁らが逗留した小谷家をさぐる (3)石井家の人びと 愛沢伸雄

 青木繁「海の幸」誕生と日露戦争の時代                                     

                                                       愛沢伸雄(NPO法人安房文化遺産フォーラム代表) 

 

3. 青木繁らが逗留した小谷家をさぐる

(3)石井家の人びと

                ~小谷喜録妻「満寿」の存在

 ① 喜録の義父石井嘉右衛門とその家族 (石井雅人氏資料提供)

     

石井嘉右衛門直幸

                              1848(嘉永元)~1911(明治44)年(64歳没)

妻 寿め 1856(安政3)~1911(明治44)年(58歳没)

父親の直廣は神田家からの養子で吉助(文吉)。相浜の石井家と布良の神田家は婚姻関係をもっていた。石井嘉右衛門は15歳で相浜村名主になり、1870(明治3)年に相浜村戸長、1897(明治30)年には富崎村長となった。1903(明治36)年3月、帝国水難救済会布良救難所長となり、日露戦役の功で勲七等青色桐葉章及び金50円を授与される。1907(明治40)年に帝国水難救済会より功績により銀杯を授与。

この年に村長を辞し、1911(明治44)年8月に妻寿めが58歳で亡くなると、後を追うように9月64歳で死去している。

長男 石井嘉男   1870(明治3)~1933(昭和8)年(64歳没)

妻 ちせ     1873(明治6)~1941(昭和16)年(69歳没)

② 次男 石井武男をみる

   小谷家から発見された写真】

1872(明治5)~1934(昭和9)年(63歳没)

妻 米  1883(明治16)~1919(大正8)年(37歳没)

東京市京橋区西紺屋町16 山下久兵衛娘

1901(明治34)年18歳結婚

 A.石井武男の軍人経歴をみる

(『石井嘉右衛門家歴代系図書』より抜粋・石井雅人氏蔵)

1872(明治5)年4月 石井嘉右衛門直幸二男として出生

1888(明治21)年4月 成城学校入学

1890(明治23)年12月 士官候補生として近衛砲兵連隊入営

1893(明治26)年7月 陸軍士官学校卒業

1894(明治27)年5月 陸軍砲兵少尉任命 野戦砲兵第3連隊第6中隊附

1895(明治28)年10月「明治弐拾七八年戦役ノ功ニ依リ勲六等単光旭日章及金弐百

圓ヲ授ケ賜フ」

1896(明治29)年11月 陸軍砲兵学校教育課程卒業

1901(明治34)年7月  野戦砲兵第18連隊中隊長

8月  陸軍結婚条例により号式結婚。妻・高橋米(18歳)

1902(明治35)年11月 勲五等瑞宝章

   1904(明治37)年4月 近衛野戦砲兵連隊補充大隊中隊長

           10月 野戦砲兵第13連隊大隊長

           11月 野戦砲兵第14連隊大隊長 陸軍砲兵少佐任命

1906(明治39)年3月 近衛野戦砲兵連隊第2大隊長

4月 「明治三十七八年戦役ノ功ニ依リ功四級金鵄勲章並ニ年

金五百圓及勲四等旭日小綬章ヲ授ケ賜フ」

1912(明治45)年4月 「皇后陛下沼津御用邸御滞在中ノ供奉仰付ラル」

5月  陸軍砲兵中佐任命

6月 「皇后陛下鎌倉御用邸ニ行啓ニ付供奉被仰付」

1914(大正3)年5月 「昭憲皇太后大喪儀ニ於テ代々木桃山間ノ供奉ヲ被命」

8月  野戦砲兵第7連隊長

1916(大正5)年8月  陸軍砲兵大佐任命

1934(昭和9)年1月  東京市赤坂区青山南で死去(63歳)

B.「陸軍少佐 石井武男」と日露戦争

青木らは、小谷喜録から妻満寿の兄武男の軍人であることや、将兵たちの戦場での姿など話を聞いたであろうか。喜録は仕事のこともあり、新聞を購読していたはずである。

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日露戦争時の『野戦砲兵14連隊』

(明治38年3月~6月)石井武男少佐(国会図書館蔵)

長女・石井満寿  1875(明治8)~1918(大正7)年 (44歳没)

1891(明治24)年1月 小谷喜録(27歳)と結婚(16歳)

夫・小谷喜録  1864(元治元)~1926(大正15)年 62歳没

二女・石井里ん  1877(明治10)~1948(昭和23)年 72歳没

夫・上野幹太郎 1863(文久3)~1941(昭和16)年 79歳没

 

③ 夫・日箇原繁

                                  1871(明治4)~1944(昭和19)年(74歳没)

  三女 石井多美

                            1880(明治13)~1925(大正14)年(46歳没)

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【住所:東京都本郷区湯島切通町19番地】

 A.「日箇原繁」という人物から青木繁との接点をさぐる

1871(明治4)年3月6日 飛騨高山 高山市下一之町で出生

父・清吉 大賀屋・生糸・和紙販売 1876(明治9)年戸長

1882(明治15)年頃まで岐阜県議会議員

家業が没落したことで繁は高山中学中退する。明治中期に「名古屋」に移住。この時期、に日箇原繁は、福岡県久留米出身のユニヴァサリスト教会牧師赤司繁太郎と親しくなり、後に赤司牧師から洗礼をうけユニテリアン(自由キリスト教徒)となった。日箇原一家は「明治30年代」、東京市日本橋西河岸に移住したという。そして、1898(明治31)年から3年間、安孫子貞治郎・坂井義三郎・佐伯好郎らとともに、内村鑑三主筆の雑誌『東京独立雑誌』の編集(月2回)に従事したものの72号で廃刊となったという。

その後、星野錫の出版社「画報社」に関わり、絵画と文学を交流させる画期的な雑誌『月刊スッケチ』の発行兼編集人とか、1907(明治40)年版から1911(大正元)年版まで『日本美術年鑑』の編集主任で、『日本書家画家年表』などの著者になっている。

月刊スケッチ    IMG_8742

親しい友人として児玉花外や中村有楽、坂井義三郎、佐伯好郎といい、なかでも坂井義三郎(1871(明治4)~1940(昭和15)年)は、美術関係で重要な人物であった。坂井は、号を犀水といい、1871(明治4)年に石川県金沢で出生している。1891(明治24)年に帝国博物館技手兼臨時全国宝物取調局技手となり、後に辞任し関西学院などで宗教学を研究。1901(明治34)年に『東京評論』を発行し、また『美術画報』編集に従事するとともに、1905(明治38)年には白馬会機関紙『光風』の編集にあたりながら、『月刊スケッチ』の編集に参画している。黒田清輝など白馬会系の画家たちとの交流が深い。第1回白馬会賞の青木繁作品のことには詳しい人物である。

1910(明治43)年に『美術新報』主幹となり、その後、『美術週報』も主筆となった。1913(大正2)年に国民美術協会創立に参加し、理事兼主事。美術評論家として西洋美術を紹介し、明治末期画家の批評をおこなった。著書に「画聖ラファエル」「黒田清輝」などがある。

日箇原繁は、その後、明治薬学専門学校(校長恩田重信)で学んで薬剤師となり、明治40年代に酸素吸入器「オキシダータ」を製造販売し、製品の書籍も出版している。晩年は、大倉洋紙店(大倉文二・大倉邦彦)系列の貿易会社「大文洋行」に勤め、1940(昭和19)年に74歳で亡くなっている。

(石井雅人氏提供:父故英夫書簡に「父・日箇原繁のことども」(日箇原久)

IMG_7125    『枯れすすき』第20号(非売品)野口存彌 平成8年)

B.「画報社」所在地:東京都本郷区湯島切通町25番地(日箇原繁は「19番地」)

画報社の創立年は不明といわれているが、最初に手がけた美術雑誌『美術画報』が1894(明治27)年に創刊しており、続いて1897(明治30)年に『美術評論』、1902(明治35)年には『美術新報』を創刊している。

画報社は山東直砥が創設し、当初から東京印刷株式会社所長星野錫が協力し経営に当たり、編集責任者は小原大衛や坂井義三郎などで、なかでも岩村透は編集や執筆に積極的に参加したという。

  

「画報社」出版物

● 調査ポイント

a.「久留米」出身のユニヴァサリスト教会牧師「赤司繁太郎」

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b. 坂井義三郎と「日箇原繁」は「画報社」を通じて、東京美術学校と関わっていたので、第1回白馬賞をとった青木繁と面識があった可能性がある。

【 a.の検証 】

久留米出身のキリスト教牧師赤司繁太郎と繋がりはあったかどうかがポイントである。

「河北」調査研究で述べたように、1902~03(明治35~36)年の「窮乏」の時代は、梅野や森田などの仲間以外に、その「窮乏」を救うために援助していた人びとがいたかどうかにある。キリスト教会関係者などが想定されるが、その伏線には「旧約聖書」の挿絵を描いたというだけではなく、「赤司繁太郎」という人物と関わっていたのではないかと推察する。赤司は、牧師だけではなく、雑誌や書籍出版に関わり、なかでも青木繁も読んだであろう「ギリシャ神話」を日本で初めて翻訳して出版した人物という。

また、日露戦争前夜の世情のなかで、内村鑑三らをはじめキリスト教的な平等思想の広がりのもとで、社会主義や労働運動の高揚もあり、平和や平等、非戦と関わって牧師赤司繁太郎の活動は、久留米出身であり青木も耳にしたかもしれない。さらに東京では当時久留米出身者の集まり(藩主有馬氏を通じて「水天宮」参りが盛んになってきたという)があった。青木が水彩ハガキなどの販売にあたって、久留米出身者と関係があったといわれているので、赤司牧師のことも聞いていたのではないか。

ついでに久留米出身者として東京帝大法科大学卒業の弁護士「城数馬」がいる。高山植物が好きで日光によく行っていたが、定宿にしていたのが福田たねの父豊吉の実家の旅館であった。そこで知り合ったのが植物画を描いていた画家「五百城文哉」で、二人は意気投合して高山植物の観察活動をおこない新種を発見している。

この人物こそ「福田たね」や小杉未醒の画塾の先生であり、後にたねの父豊吉は城数馬から、青木繁が将来有望な画学生であると聞いた可能性もある。つまり、たねを通じて教師であった豊吉は、貧しい画家青木繁を支援していこうと考えたのではないか。

『青木繁』(角川新書)において、河北は豊吉が親戚の県議から青木を日光美術館長に就任させる依頼を受けたと記載し、青木は明治37年頃からたねの実家と関わりがあった可能性があるとする。そうなるとたねの父豊吉が、布良に写生旅行にいく二人分の資金を出したかもしれない。

【 b.の検証 】

坂井義三郎(犀水)が黒田らの白馬会関係者や「画報社」とも交流があったので、第1回白馬賞を受賞した東京美術学校学生青木繁と繋がりがあったという可能性はどうであろうか。

その理由の一つは、坂井が「河北」調査研究で指摘した朝日新聞(1904(明治37)年10月10日付)の日曜評論では「白馬会第8回展」の青木作品を高く評価している。この坂井の背後に「画報社」に勤めていた「日箇原繁」という編集者がいたとすると、もし青木らが布良に写生旅行に行くという話をした時に、義兄小谷喜録を紹介したとも考えられる。

絵画と文学との積極的接触や交流をはかる雑誌(月刊・菊判・各巻約50頁)として1905(明治38)年4月に『月刊スケッチ』が創刊されたものの、翌年3月に第12号で廃刊となった。この『月刊スケッチ』創刊号の発行兼編集人が「日箇原繁」であり、巌谷小波・徳富蘆花・正宗白鳥などの著名人が賛助し、この時代を代表する泉鏡花・広津柳浪・徳田秋声・島崎藤村・国木田独歩などが寄稿した。

 

青木繁「海の幸」誕生と日露戦争の時代 3.青木繁らが逗留した小谷家をさぐる(1)小谷喜録とその家族 (2)小谷喜録の生涯をみる 愛沢伸雄

青木繁「海の幸」誕生と日露戦争の時代 

愛沢 伸雄(NPO法人安房文化遺産フォーラム代表)

3. 青木繁らが逗留した小谷家をさぐる

(1) 小谷喜録とその家族

  戸主「小谷喜録」戸籍原本・明治31年9月12日        (小谷家蔵)

青木繁らが訪れた1904(明治37)年7月17日の小谷家一家の様子を見る。

まず「5人」家族であった。戸籍原本では喜録の父治助が記載されているが、青木らが逗留する2年前の1902(明治35)年9月に65歳で亡くなっている。

治助の後妻きさ(60歳)がおり、先妻つね(58歳)は1889(明治22)年に亡くなっており、翌年治助(54歳)は神戸村青木若松の叔母である「きさ」を後妻としている。なお、きさは1914(大正3)年に73歳で死去。治助は黒川権右衛門からの養子で、布良村の漁師頭となり初代布良区会議員であり、水産業振興のために神田吉右衛門村長らとともに村政を牽引していた人物。喜録は父治助の地域貢献の姿を見ながら成長していたことが、村政にも関わり、生涯にわたって村政では極めて重要な立場にあったと推察している。

明治31年9月に作成した戸籍には、明治36年12月4日に養子となった「ゆき」の記載はない。治助後妻きさの姉ゑい(神戸村藤原の小川家父勘蔵・母満きは死去し、ゑいが戸主)故小川勘蔵二女「ゆき」5歳(明治31年5月13日生)は、戸主小川ゑいからきさの養子(女)となっている。青木らが来た1904(明治37)7月、小谷家は五人家族であった。

なお、小谷家を資産面からみて富崎村布良でどのような位置にあったかが不明であったが、年代は明治30年代であったと思われる。この資料から小谷家は「漁船4隻」を所有しており、富崎村ではかなりの資産家であることがわかる。資産総額も記載されている他の布良漁業組合員らと比べて、布良ではトップクラスにあった。

IMG_6218 IMG_6217      【小谷家の資産】

『組合員所有不動産及以外ノ資産調書』

 (神田家文書・館山市博物館蔵)

富崎村布良千弐百五拾六番地 小谷喜録

一、郡村宅地 壱反六畝拾歩    此価格千九百六拾円也

一、畑    六反五畝廿九歩  此価格九百八拾五円也

一、家屋   参棟       此価格  五百円也

一、漁舩四艘漁具附属品一式   此価格 千弐百円也

価格合計 金 四千六百四拾五円也

 

(2) 小谷喜録の生涯をみる

① 年 表 

          1864(元治元)~1926(大正15)年 62歳没

1837(天保8)年5月 黒川権右衛門治助出生。のち小谷市松(喜六)の養子に。

1864(元治元)年12月 鮮魚仲買商の父治助のもと喜録(幼名・市松)出生。

1868(明治元)年    父治助が漁師頭に選任される。

1874(明治7)年4月  龍樹院に布良小学校開校。喜録(10歳)布良小学校卒業後、千葉・東京の私塾で和漢を学ぶ。

1876(明治9)年      布良で大火229戸焼失

1879(明治12)年     布良村と相浜村が合併し富崎村

1882(明治15)年     青木繁が福岡県久留米に出生。

1883(明治16)年  治助、衛生委員に就任。

1884(明治17)年9月 治助、布良村会議員に選出

1887(明治20)年    蓮寿院の相浜小学校と合併して富崎小学校になる。

1888(明治21)年2月  喜録、富崎尋常小学校授業生(教員)となる。

1889(明治22)年   町村制実施により正式に布良村と相浜村が合併し富崎村。富崎尋常小学校と改称。布良区の初代区会議員に小谷治助。 治助妻つね(58歳)死去。

11月21日 布良の大火で74戸焼失(小谷家も焼失)

1890(明治23)年    治助(53歳)、青木きさ(46歳)と再婚。喜録(26歳)、教員退職。  8月内村鑑三が引率し水産伝習所生徒実地演習のため小谷家訪問。  9月10日 関澤明清、小谷喜録に礼状(『日本重要水産動植物之図』贈呈)

1891(明治24)年2月 喜録(27歳)、石井嘉右衛門長女満寿(16歳)と結婚。長男喜三郎誕生・乳児死去。

1892(明治25)年   喜録(28歳)富崎村政に関わる。父治助は村会議員、

1893(明治26)年   富崎尋常高等小学校となる。(村長神田吉右衛門~明治32年まで)

1894(明治27)年    新校舎完成。6月 喜録(30歳)、二女種子誕生

1897(明治30)年 6月  喜録、家督相続。 12月1日 安房水産会富崎村委員に就任。

1901(明治34)年   喜録の義父石井嘉右衛門が富崎村長。喜録、村会議員に就任。

1902(明治35)年7月   富崎村政に貢献したことから感謝状と銀杯を授与。 9月    喜録(38歳)の父治助が死去(66歳)

1903(明治36)年3月  帝国水難救済会布良救難所創立。石井村長が所長、喜録は看守長となる。故小川勘蔵二女ゆき(5歳)を継母きさの養子とする。

1904 (明治37)年  日露戦争勃発。

青木繁、東京美術学校卒業。青木繁、森田恒友、坂本繁二郎、福田たねの4人は写生のため布良に来る。柏屋で一泊後、帝国水難救済会布良救難所の仕事で忙しい小谷喜録宅へ逗留。 《小谷家の家族は祖母きさ(63歳)・喜録(40歳)・満寿(30歳)種子(9歳・富崎尋常小3年生)・ゆき(6歳)》

1905 (明治38)年     青木繁と福田たね、西岬村伊戸の円光寺に逗留。

1909(明治42)年  富崎漁船改良会社設立に当たって株主になる。

1911 (明治44)年     青木繁、28歳で死去。石井嘉右衛門(64歳)と妻が死去。

1912(明治45)年 布良救難所看守長として帝国水難救済会総裁より銀製賞標授与。

1914(大正3)年    二女種子、千葉女子師範学校卒業。治助の後妻きさ71歳で死去。

1915(大正4)年      種子,東葛飾郡川間尋常高等小学校訓導赴任するも22歳で死去。

1918(大正7)年    喜録の妻満寿が44歳で死去。

1923(大正12)年  布良の大火137戸焼失。富崎村消防組頭で消防聯合表彰状授与。9月1日 関東大震災勃発し、1名死亡、家屋70戸・船119隻流失。喜録は富崎村助役として救援活動に尽力。被害を受けた布良漁港復旧事業に奔走。

1926(大正15)年   喜録、63歳で死去。

④小谷喜録        小谷喜録・妻ます                        川間小学・訓導 小谷種子

              喜録・満寿夫妻                           二女種子

④小谷喜録「日露戦争」布良救難所看守長表彰    IMG_2045                                 

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【小谷喜録は俳句を嗜み、俳号は「亀六」といった】

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小谷家から発見された満井武平(俳号:愛国) 『追悼俳句集』角田竹冷宗匠評

 

② 妻満寿・娘種子の香典帳から関係者をさぐる

  • 満寿の香典帳 1875(明治8)年~1918(大正7)年 (44歳没)

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「石井武男」「日箇原繁」「川上恭三」らの名前が見える】

  • 小谷種子の香典帳 1894(明治27)~1915(大正4)年

(二女種子が川間小学校訓導として赴任するも1年後に22歳で死去)

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「川上恭三」「日箇原繁」らの名前がみえる】

青木繁「海の幸」誕生と日露戦争の時代  2.小谷家資料や国会図書館にある明治期の布良を紹介した資料 (1)青木繁が訪れた景勝地・布良 (2)布良の医者 愛沢 伸雄

 青木繁「海の幸」誕生と日露戦争の時代               

                                                          愛沢伸雄(NPO法人安房文化遺産フォーラム代表) 

2.  小​​谷家資料や国会図書館にある明治期の布良を紹介した資料

(1)青木繁が訪れた景勝地・布良

        〜明治大正期の主な地図案内記・写真集での「布良」

 

①  『安房國安房郡布良村々誌』 安房郡布良村 明治16年

    「里俗ノ古傳説ニ曰ク…天富命…布良浦ニ御渡海アツテ布良近傍ニ鎮定シ…土地大ニ開ケタリ命曰ク阿那此地ハ芽出浦ナリト布良ハ芽出浦ノ短辞ナリ故ニ地名ヲ名ノテ布良ト云ト云々又茲地ニ女神山ト云フアリ故ニ村名ヲ女良ト云神代系圖ニモ女良ト見ヘタリ云々 」

  • 「梅野宛書簡」a.の調査検討

 青木が書簡で女良書いたのはこの伝承を調べたか、小谷喜録から聞いた可能性がある。「万葉」とは、古代を表する言葉として表現上、使用したではないか。

② 『房州避暑案内』 旅人宿木村屋  山嵜房吉 明治25年

  • 「布良迄へ九十二三町布良崎神社眺望殊ニ佳絶ナリ同所ニ新設セラスレタル海軍望楼」とあるので、「海軍望楼」の設置については別項で検証する。

 ③ 『安房の冬』 木下藤次郎 明治27年 

      (「千葉市立美術館「木下藤次郎展」図録2014年」

大下藤次郎「安房の冬」明治27年0001

  • 調査ポイント

a.根本より布良方面に向かう記述のなかに、「山上に信号旗の建てるを見る 兼ねてきく布良の入口なり」

b.  「柏屋とか云ふ一軒の家あり…田舎の宿屋」と、「柏屋」の存在

c.  大下藤次郎という人物と布良。太平洋画会の創立者の一人で、明治期の水彩画運動の中心的なメンバーで、青木らと何らかの関係があったかと思われる。

◎【大下藤次郎】 1870年(明治3年)〜1911年(明治44年) 42歳没

 大下藤次郎は近代日本における水彩画のパイオニアといわれ、水彩画家をめざした第一歩が房総への写生旅行となる。その紀行が『海と山 西総地方の紀行』1893(明治26)年や『安房の冬』1894年(明治27年)年であり、布良の地も訪れ水彩画を描いている。

 大下藤次郎は三宅克巳や丸山晩霞らとともに、明治期の水彩画運動を牽引して、水彩画の普及活動のために『水彩畫の栞』(1901(明治34年)や雑誌『みづゑ』1905(明治38)年創刊などの出版に関わり、日露戦争から青少年に水彩画の大きなブームを呼び起こしていった。

【a.の調査】

   1894年(明治27年)1月16日から21日までの安房への写生旅行記で、その中に「山上の信号旗」との様子が記載され、「兼ねてきくところ」としているので、当時、根本や布良を訪れる画家文人たちの目印になっていたのか。なお、紀行文が書かれた「明治27年1月はまだ「布良海岸望楼」が開設されていないが、「仮設見張り所の中に信号旗」があったと思われる。

 1894(明治27)年1月は日清戦争前夜であり、当時清国海軍は最新鋭艦船を含め20余隻の「北洋艦隊」があった。海軍は、その攻撃力をもって東京湾に侵入されることを警戒していた。その背景のもので、1894(明治27)8月5日に布良に「海岸望楼」が設置された。(別項で報告)

【b.の調査】

   次項の資料で裏付けられた。

④ 『千葉県安房国全図』  石井錬治   明治35年10月(「館山市博」蔵)

明治35年安房地図・布良  

  • 調査ポイント

a. 民間の地図には「海軍望楼」の場所があり、裏面の「房州旅行案内」として、「布良岬」には、次のように記載されている。

 「富崎村布良の南端なる岬角にして伊豆の大島と相對峙す西に豆相の諸​​峯を眺め洲の崎平砂浦を控え前に有名な鬼ヶ浦鬼ヶ瀬あり最も眺望に富む此地も亦有名の水産場にしても常に船舶の往来絶ゆることなく鮪鮪の漁猟壮なり三十二年海嘯の為港内浸害せられたるも目下官に於て數万金支出し石造の堤塘工事中なるを以て近く成工に至らば本港の美観を呈すべし近年海保の為海軍望楼の設けあり又日本帝国水難救済會に於ても水難救護所の設けあり又郷社布良崎神社あり健脚を試む所たりとす」

1902(明治35)年10月に発行された「千葉県安房国全図」の裏面「房州旅行案内」の「布良岬」の記載で注目されるところは

(1) 「明治三十二年の海嘯」、つれて津波で布良港が被害を受け、現在、港を修復工事中で近く完成すること

(2)近年「海軍望楼」設置

(3)「帝国水難救済会の救難所」が設置。これらのことは青木らが布良訪問する際に「房州旅行案内」のような内容で聞いたかもしない。

 (1)の「明治三十二年」の地震津波は、1899年(明治32)年3月7日にあった「紀伊大和地震」(マグニチュード7.0)であり、フィリピン海プレート内の深さ40〜 50kmであった地震とされる。紀伊半島の尾鷲などで死者7名が、三重県を中心に近畿地方南部で被害があった。

 この地震の津波が布良海岸まで押し寄せ「布良港突堤」に被害があったとわかったが、『千葉県の自然誌〜本編千葉県の大地』「千葉県に被害を及ぼした歴史一覧」には、布良へ津波があって港突堤への被害があったという記載はない。

 なお、この突堤修築事業が県によって、すぐに実施された背景で推測されるのは、「布良海岸望楼」と横須賀水雷隊の寄港に関係していると思われるのである。この件は、別項で取り上げる。

神田家文書(「館山市博」蔵)に布良港突堤修復に関する事項があったのを紹介する。

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⑤ 『房州見物』  磯谷武一郎  大正6年

    「布良港は西方太平洋に開き荒磯にして繋舟すべからざれば。布良村民は六千餘百圓を投じて防波堤を築きしも明治三十二年十月海嘯の為渫はれて人家為めに其害を被れり。明治三十四年本縣會の決議に依り翌三十五年突堤長さ百二十四間經費二萬三百餘円を支出し築きしものなり。」

「又望楼の設けありて其信號旗は出船入船毎に高く掲げられる」

「望楼の下、崖頭百尺の道路より崖下百尺の沙上を見れば。幾多の黒團々が此の夏なる紅火を圍繞しつゝあるを見る。即ち是ぞ音に名高き房州の蜑女なりしよ。行き行きて巖角をめくれば茲外海の怒涛は人の心臓を鼓動せしむ。遥かに海上を隔てゝ伊豆七島を望み、西北に富嶽の雲に聳ゆるを見る真に天下無比の一奇觀なり」

 『敷島美観』  小泉墨城編 帝国地史編纂所 明治38年

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  •  日本を代表する景観として世界に発信(英文)する場所(千葉県6か所)として選ばれたのが布良であった。「布良の怒涛」というテーマで紹介されている。

⑦ 『房州みやげ』 鷲見剛亮 東京堂 明治45年

民業と生活

 房州は三面を控ゆる國柄で、漁業が尤も發達し、日本全國に渉り屈指の水産地として世間に承認されて居る。近海漁業に遠洋漁業にナカナカ盛ん…その漁業の収穫高許りでも、明治四十二年度の調べで…二百四十四萬三千五百五十六圓に上り、…民業の大體は漁農兼業の状態…數字を以て統計的に分類すると、漁五農三其他が二の割合である。…之を要するために歳入歳出等の総べてに於て、千葉縣下十二郡内で何れの方面から見ても…第一位を占めて居る…納税成績徴し、一般を通じて中産程度と断定しても差支へはなからう。物産は魚貝、海藻、米穀、蔬菜、果實、菽類、生糸、繭、牛馬、鶏卵、木材、石材、酒、醤油、薪炭、茶、白土、織物、畳表、茣蓙等が重なる者である。

人情と風俗

 人情は概して正直で従順であるだけ、夫れだけ保守の觀念に富み進取の氣象に乏しいやうで、従つて個人主義が行はれて自から町村割據の模様が取れないやうだ、風俗は頗ぶる質朴で奢侈の惡弊がなく勤勞の美習がある、警察署や、裁判所の事故の少きに徴しても、其等の大體を觀測する事ができる。畢竟するに氣候の影響と山光水色の自然感化もあらうが此の邊が大に研究一番の價値ある所…」

  • 当時、外部から安房の人びとがどのように見られていたかがわかる。著者は旅行ジャーナリストで、安房に縁があって20年ほど通っていると述べている。今日と比べても興味深い記述である。布良に来た青木らが、地域の人びとからどのように見られ、どう受け入れられたかを知るうえで、参考となるかもしれない。

⑧ 『楽土之房州夏季特別号房州案内』 大正12年 楽土社

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※大正12年の時点では富崎村の旅館は「富崎館▲吉野屋」と記載される。

(2) 布良の医師

〜「福田証言」と「高島証言」の検証

 ① 「福田証言」の「田村という医師」について

      〜「安房医師会誌」「会員の異動記録」

明治29年・36年・40年、43年の4回「富崎村布良  田村子明」とその記載あり。「明治44年5月〜大正9年2月異動」には「富崎村 田村子明  大2退会」とあるので、1896年(明治29年)から1913年(大正2年)まで冨崎村布良で医院を開業していた。住所は布良1290番地で、布良崎神社の隣であり、小谷家とも近い。なお、内務省衛生局「日本医籍」(明治22年)忠愛社には、安房郡21名の中に「布良村 田村子明」とある。

IMG_3271 小谷家蔵

② 「高島証言」の「郵便局長の川上」とは

 「…宿の親戚、郵便局長の川上氏の息子に、たのまれて、英語の手ほどきをしてやった縁などあり。青木が布良に行く時には、そこで唯一の旅館であった此の柏屋と、隣の川上氏とは、情を尽して、紹介依頼の手紙を、ことづけたが。 …」

 当時、1880年(明治13年)に布良郵便局に設置されると、「神田辰太郎」は取扱役になるとともに局長となり30余年郵便局にあった。ゆえに郵便局長としての「川上」はいない。柏屋の隣は郵便局である、実は「川上」宅も存在した。高島が布良に来たときの「川上」であれば、漢方医「川上恭順」宅であり、医者はやめて村政に関わって、1889(明治22)年には小谷治助ともに布良区会議員になっている。「高島証言」は、この人物の息子と思われる。

 川上家は小谷家と親しく、青木らを小谷喜録に紹介したことは考えられる。現在の小谷栄の妻としが母ゆきから伝えられていることは、恭順の息子恭三を「川上のおじさん」と呼んで親しい関係であったという。現在、富崎地区には川上家がないので、家系は絶えたかもしれない。最近、布良の墓地から川上恭三が建立した「七代恭順」(大正4年没)の墓石を発見した。明治初期の「医術営業仮鑑札交付人名表』(明治9年)には、「布良村 川上恭順」とあるものの、その後、医者である証明である鑑札を更新しなかったようだ。

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特別展「村の医者どん」 図録 (館山市博蔵)

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青木繁「海の幸」誕生と日露戦争の時代  1.これまでに書籍に記載される「通説や証言」をみる (2)『海の幸』誕生の背景をみる      愛沢伸雄

 青木繁「海の幸」誕生と日露戦争の時代               

                                                       愛沢伸雄(NPO法人安房文化遺産フォーラム代表) 

1.これまでに書籍に記載される「通説や証言」をみる

(2) 『海の幸』誕生の背景をみる

①  制作などの経過

1904(明治37)年

7月4日   東京美術学校西洋画科選科卒業

15日      夜、坂本繁二郎・森田恒友・福田たねと霊巌島から乗船

16日      朝、館山に到着

17日  布良に着き、「柏屋」か、「吉野屋」に一泊

「柏屋」か、「田村医師」か、「川上」かの紹介で小谷喜録方へ

※ 8月22日友人「梅野満雄」宛に書簡を出す。(『海の幸』制作を示唆する)

≪「梅野満雄」宛に書簡≫

其後ハ、御無沙汰失礼候 モー此処に来て一ヶ月余になる、この残暑に健康はどうか。僕は海水浴で黒んぼーだよ、定めて君は知つて居られるであらうがこゝは万葉にある「女良」だ。すく近所に安房神社といふがある、官幣大社で、天豊美命をまつつたものだ、何しろ沖は黒潮の流を受けた激しい崎で上古に伝はらない人間の歴史の破片が埋められて居たに相違ない、

 漁場として有名な荒っぽい処だ、冬になると四十里も五十里も黒潮の流れを切つて二月も沖に暮らして漁するそうだよ、

西の方の浜伝ひの隣に相の浜といふ処がある、詩的な名ではないか、其次ハ平沙浦(へイザウラ)、其次は伊藤のハナ、其次ノ、洲の崎でこゝは相州の三浦半島と遥かに対して東京湾の口を扼して居るのだ、

上図はアイドといふ処で直ぐ近所だ、好い処で僕等の海水浴場だよ、

上図が平沙浦。先きに見ゆるのが洲の崎だ、 富士も見ゆる 、 …(略)…

沖では、クヂラ、ヒラウヲ、カジキ 「ハイホのこと」、マグロ、フカ、キワダ、サメ、 がとれる、皆二十貫から百貫目位のもので釣るのだ、恐ろしい様な荒つぽい事だ、灘では、トビ魚(アゴ)、カツオ、タイ、アジ、ヒラメ、サバ、抔だ、それから岸近くでは、小アジ、タカベ、クロダイ、カレイ、ボラ、抔だ、磯辺では、タコ(大いよ)、イセエビ、メチダイ、メジナ、抔だよ、 …(略)…

まだまだ其外に名も知らぬものが倍も三倍もある、また種族が同じで殊類なものもあるのだ、

今は少々製作中だ、大きい、モデルを澤山つかつて居る、いづれ東京に帰へつてから御覧に入れる迄は黙して居よう。

  • 調査ポイント(「梅野宛書簡」とする)

a. 「万葉にある「女良」だ」の女良になぜ「」がついているか。青木は布良を「女良」と呼ぶことをどこで知ったか。

b. 「洲の崎でこゝは相州の三浦半島と遥かに対して東京湾の口を扼して居る」との文脈は、軍事的要衝の地を指していることを暗示させる

c. 「漁場として有名な荒っぽい処だ」「クヂラ、ヒラウヲ、カジキ 「ハイホのこと」、マグロ、フカ、キワダ、サメ、 がとれる、皆二十貫から百貫目位のもので釣るのだ、恐ろしい様な荒つぽい事だ」と、布良の鮪はえ縄漁についての理解はどうであったか。

d. 「此処に来て一ヶ月余」とすると、記載は1904(明治37)年8月の中旬であり、22日に郵便局で出す。日露戦争の戦時下、布良郵便局では郵便検閲はどうだったか。

②  河北倫明「青木繁」論をみる

戦時中の世情のなかで美術史的な視点をもって調査研究して執筆

『青木繁―悲劇の生涯と芸術』角川新書(昭和39年)

「あとがき」には、戦時中に執筆した最初の著作を漢字やかなづかいは今風に改め、そのまま再録したとある。「昭和十九年で、戦時下のことであり、原稿をかいているとき、灯火管制が行われたり、空襲警報が鳴りひびいたりしたこともあった」

「明治三十六年、二十二歳…千駄木町六五桑垣方へうつった。…森田恒友と同宿している。森田の追想記には『此の時分時々庄野君、正宗君などが遊びに来た。』…この時代は、青木の窮乏も激しかったようで、都合がつかなくなっては、つぎつぎと移転をくりかえし、友人達を利用してはいろいろ高飛車に迷惑をかけたものであろう。すでに学資の来るあてもなくなっていた」ということで、河北は久保貞次郎が『みずゑ』で友人石川確治(明治38年東京美校彫刻本科卒)の談として、青木が「文房具売り出しの一枚三十銭かのエハガキ絵までわずかな料金でかかねばならなかった」との記載を紹介している。「君の学資の絶えてゐることも余程後に知つた位である。苦学といつても…他所の仕事を助けたりなどしたといふではない、…何うして居たかは判らないが何うにかなつて行つたのである」(画集追想記) 「…生活の模様に着いて…梅野満雄の回想記…『此の三十五、六年の二年間は青木君が窮迫の絶頂と言ふ可きで、自分は当時の青木君を追想する毎によくも身体が……と考へずには居られない。…当時の日記に『君が生命の糧であつた』と書いてゐる。…学校から授業料の滞納処分を受けて退学の憂目を見ようとしたので自分は新潟行の旅費を割いた。…青木君は、此の困窮の中に勉強も随分やつて居た。…生活の為に外人向の水彩画も描き、…この年(明治36年)の白馬会第八回展覧会は、…青木は初めて作品を公表…水彩あるいは色鉛筆によって自由な空想を絵にしたものである。貧困のためやむを得ず小品に甘んじた…白馬賞の第一回受賞者となり、青木の異才ははじめて世に知られるに至った。…当時読売新聞の日曜評論で坂井義三郎がこの会を概評し…『超自然の事に手を付けようとする人のあるのは喜ばしい。』(読売新聞十月十日)

「曙時代 明治三十六年~明治三十七年 青木が…稀有の創作力を発揮したのは、明治三十六年末から翌年の初秋ごろにいたるほぼ一年たらずの時期であるが、この時代の作品は…例の「海の幸」を頂点とする一連の作品が出たのである…第一回の白馬賞をうけて華やかな注視の中に世に出た…、一方には福田たねとの激しい恋愛も始まっていた。三十七年二月はすでに日露の戦いが起こっていたが、つぎつぎと捷報はつたえられ、画学生たちの夢も昂揚期の影をうつして健康な浪漫的なものであったと感じられる。坂本、正宗の追想記…『一番無邪気に遊んだのはその頃であつたろう、…君と不同舎に居たさる女性との間に恋が成立したのもこの頃…君は自分にその女性をもらはうと思ふが何うかといふやうなことを語つた。それ以来君と某君とは繁々往来した。…その時分の君の風采は一通りではなかった。汚れて肩のあたりは破れて、汗臭いただの一枚びらの着物に、ずたずたになつた絹袴をつけて、いつも絵具箱をかついで歩いて居た』(坂本繁二郎、画集追想記)

…青木は、戦争もたけなわ明治三十七年七月四日には、東京美術学校西洋画科選科を卒業……式で来賓の大久保文部大臣は、「振古未曾有の時局」に際して卒業する一同を激励している。…こうして学校を卒業した青木には、いよいよ憚かるところなく自由に大胆に画想をのべるときがきた。…房州布良へ写生に出かけて…この写生旅行はいろいろな意味で青木の生涯の一つの大きな峠となった…一漁村に、自分を崇拝する女性や親しい友人と行をともにした青木が、どれほど張りきった状態にあったか…」

  • 調査ポイント(「河北」調査研究とする)

a. 千駄木時代に同宿した森田は「庄野君」が時々遊びに来たという。「大倉と庄野」に関わる「高島証言」には、「庄野」と青木・森田が知り合いであったという話がない。庄野宗之助は太平洋画会のメンバーであり、森田と交流があったうえに、青木とも1903(明治36)年頃の千駄木の下宿で森田に紹介され、交流が生まれた。すでに布良に写生旅行にいったことのある庄野や森田らは、青木が求めるイメージをもつ場所と紹介した可能性がある。

b. 梅野によれば青木が親からの学資送金があったのは、1899(明治33)~1901(明治34)年の1年4ヶ月という。1902~03(明治35~36)年の「窮乏」の時代は、梅野や森田などの仲間以外に、その窮乏を支援していた人がいたのか。考えられるのは、キリスト教会関係者などである。後に青木は千駄ヶ谷にあったセブンデーアドベンチストの教会で、フイルドという牧師から洗礼をうけたという。梅野満雄宛の書簡には「過日、僕はクリスチャンの洗禮を受けた」とある。(「美術研究作品資料第3冊 青木繁《海の幸》」のなかの「青木繁年表(植野建造遍)」『青木繁全文集 仮象の想像』の梅野宛書簡(明治40年7月2日付)

③青木繁の関係者の証言

A.坂本繁二郎

坂本繁二郎は「自分の目撃談」を青木に話したことが制作のきっかけであったと証言。

『私の絵 私のこころ』1969(昭和44)年 日本経済新聞社

「…明治三十七年の夏、私は青木と彼の愛人である女画学生福田たね、それに森田恒友の四人で千葉県の布良海岸に写生旅行に出かけました。黒潮と太陽とはてしない水平線に圧倒きれながらも私たちの心は躍動したものです。青木には、秋の白馬会展を目ざして、日本の古典からヒントを得た「海の幸」「山の幸」の二部作をものにする野心が初めからあったようです。

あるナギの午後、私は近くの海岸で壮大なシーンに出会いました。年に一、 二度、あるかなしゃの大漁とかで船十余隻が帰りつくや、浜辺は老いも若きも女も子供も、豊漁の喜びに叫ぴ合い、夏の目ざしのなか、懸命の水揚げです。…夜、青木にその光景を伝えますと、青木の目は異様に輝き、そこに「海の幸」の構想をまとめたのでしょう。翌朝からは大騒ぎのうちに制作が始まりました。他の三人はもっぱら手伝い役。こちらの迷惑などはお構いなしで、モデルの世話だ、画材の買い入れだと追い回されました。青木独特の集中力、はなやかな虚構の才には改めて驚かされましたが、 あの「海の幸」は絵としていかに興味をそそるものとしても、真実ではありません。大漁陸揚げの光景は、青木君は全く見ていないはずです。現実に情景がまるで異なり、人も浜も海も実感とは違っています。彼は私の話を聞き空想で描いたのです。実際は船から降ろす小魚は女子供がざるに受け、大魚はわたを捨てたのを、血をしたたらせながら背に荷うのです。 すさまじいばかりの色彩と動の世界がそこにあったのです。青木がそれをじかに見ていたら、もっと絵は違ったものになっていたでしょう。

  • 調査ポイント(「坂本」証言とする)

a. 「海の幸」「山の幸」の二部作をものにする野心が初めからあった」意味は。

b. 「年に一、 二度、あるかなしゃの大漁とかで船十余隻」と小谷家