青木繁「海の幸」誕生と日露戦争の時代  1.これまでに書籍に記載される「通説や証言」をみる (2)『海の幸』誕生の背景をみる      愛沢伸雄

 青木繁「海の幸」誕生と日露戦争の時代               

                                                       愛沢伸雄(NPO法人安房文化遺産フォーラム代表) 

1.これまでに書籍に記載される「通説や証言」をみる

(2) 『海の幸』誕生の背景をみる

①  制作などの経過

1904(明治37)年

7月4日   東京美術学校西洋画科選科卒業

15日      夜、坂本繁二郎・森田恒友・福田たねと霊巌島から乗船

16日      朝、館山に到着

17日  布良に着き、「柏屋」か、「吉野屋」に一泊

「柏屋」か、「田村医師」か、「川上」かの紹介で小谷喜録方へ

※ 8月22日友人「梅野満雄」宛に書簡を出す。(『海の幸』制作を示唆する)

≪「梅野満雄」宛に書簡≫

其後ハ、御無沙汰失礼候 モー此処に来て一ヶ月余になる、この残暑に健康はどうか。僕は海水浴で黒んぼーだよ、定めて君は知つて居られるであらうがこゝは万葉にある「女良」だ。すく近所に安房神社といふがある、官幣大社で、天豊美命をまつつたものだ、何しろ沖は黒潮の流を受けた激しい崎で上古に伝はらない人間の歴史の破片が埋められて居たに相違ない、

 漁場として有名な荒っぽい処だ、冬になると四十里も五十里も黒潮の流れを切つて二月も沖に暮らして漁するそうだよ、

西の方の浜伝ひの隣に相の浜といふ処がある、詩的な名ではないか、其次ハ平沙浦(へイザウラ)、其次は伊藤のハナ、其次ノ、洲の崎でこゝは相州の三浦半島と遥かに対して東京湾の口を扼して居るのだ、

上図はアイドといふ処で直ぐ近所だ、好い処で僕等の海水浴場だよ、

上図が平沙浦。先きに見ゆるのが洲の崎だ、 富士も見ゆる 、 …(略)…

沖では、クヂラ、ヒラウヲ、カジキ 「ハイホのこと」、マグロ、フカ、キワダ、サメ、 がとれる、皆二十貫から百貫目位のもので釣るのだ、恐ろしい様な荒つぽい事だ、灘では、トビ魚(アゴ)、カツオ、タイ、アジ、ヒラメ、サバ、抔だ、それから岸近くでは、小アジ、タカベ、クロダイ、カレイ、ボラ、抔だ、磯辺では、タコ(大いよ)、イセエビ、メチダイ、メジナ、抔だよ、 …(略)…

まだまだ其外に名も知らぬものが倍も三倍もある、また種族が同じで殊類なものもあるのだ、

今は少々製作中だ、大きい、モデルを澤山つかつて居る、いづれ東京に帰へつてから御覧に入れる迄は黙して居よう。

  • 調査ポイント(「梅野宛書簡」とする)

a. 「万葉にある「女良」だ」の女良になぜ「」がついているか。青木は布良を「女良」と呼ぶことをどこで知ったか。

b. 「洲の崎でこゝは相州の三浦半島と遥かに対して東京湾の口を扼して居る」との文脈は、軍事的要衝の地を指していることを暗示させる

c. 「漁場として有名な荒っぽい処だ」「クヂラ、ヒラウヲ、カジキ 「ハイホのこと」、マグロ、フカ、キワダ、サメ、 がとれる、皆二十貫から百貫目位のもので釣るのだ、恐ろしい様な荒つぽい事だ」と、布良の鮪はえ縄漁についての理解はどうであったか。

d. 「此処に来て一ヶ月余」とすると、記載は1904(明治37)年8月の中旬であり、22日に郵便局で出す。日露戦争の戦時下、布良郵便局では郵便検閲はどうだったか。

②  河北倫明「青木繁」論をみる

戦時中の世情のなかで美術史的な視点をもって調査研究して執筆

『青木繁―悲劇の生涯と芸術』角川新書(昭和39年)

「あとがき」には、戦時中に執筆した最初の著作を漢字やかなづかいは今風に改め、そのまま再録したとある。「昭和十九年で、戦時下のことであり、原稿をかいているとき、灯火管制が行われたり、空襲警報が鳴りひびいたりしたこともあった」

「明治三十六年、二十二歳…千駄木町六五桑垣方へうつった。…森田恒友と同宿している。森田の追想記には『此の時分時々庄野君、正宗君などが遊びに来た。』…この時代は、青木の窮乏も激しかったようで、都合がつかなくなっては、つぎつぎと移転をくりかえし、友人達を利用してはいろいろ高飛車に迷惑をかけたものであろう。すでに学資の来るあてもなくなっていた」ということで、河北は久保貞次郎が『みずゑ』で友人石川確治(明治38年東京美校彫刻本科卒)の談として、青木が「文房具売り出しの一枚三十銭かのエハガキ絵までわずかな料金でかかねばならなかった」との記載を紹介している。「君の学資の絶えてゐることも余程後に知つた位である。苦学といつても…他所の仕事を助けたりなどしたといふではない、…何うして居たかは判らないが何うにかなつて行つたのである」(画集追想記) 「…生活の模様に着いて…梅野満雄の回想記…『此の三十五、六年の二年間は青木君が窮迫の絶頂と言ふ可きで、自分は当時の青木君を追想する毎によくも身体が……と考へずには居られない。…当時の日記に『君が生命の糧であつた』と書いてゐる。…学校から授業料の滞納処分を受けて退学の憂目を見ようとしたので自分は新潟行の旅費を割いた。…青木君は、此の困窮の中に勉強も随分やつて居た。…生活の為に外人向の水彩画も描き、…この年(明治36年)の白馬会第八回展覧会は、…青木は初めて作品を公表…水彩あるいは色鉛筆によって自由な空想を絵にしたものである。貧困のためやむを得ず小品に甘んじた…白馬賞の第一回受賞者となり、青木の異才ははじめて世に知られるに至った。…当時読売新聞の日曜評論で坂井義三郎がこの会を概評し…『超自然の事に手を付けようとする人のあるのは喜ばしい。』(読売新聞十月十日)

「曙時代 明治三十六年~明治三十七年 青木が…稀有の創作力を発揮したのは、明治三十六年末から翌年の初秋ごろにいたるほぼ一年たらずの時期であるが、この時代の作品は…例の「海の幸」を頂点とする一連の作品が出たのである…第一回の白馬賞をうけて華やかな注視の中に世に出た…、一方には福田たねとの激しい恋愛も始まっていた。三十七年二月はすでに日露の戦いが起こっていたが、つぎつぎと捷報はつたえられ、画学生たちの夢も昂揚期の影をうつして健康な浪漫的なものであったと感じられる。坂本、正宗の追想記…『一番無邪気に遊んだのはその頃であつたろう、…君と不同舎に居たさる女性との間に恋が成立したのもこの頃…君は自分にその女性をもらはうと思ふが何うかといふやうなことを語つた。それ以来君と某君とは繁々往来した。…その時分の君の風采は一通りではなかった。汚れて肩のあたりは破れて、汗臭いただの一枚びらの着物に、ずたずたになつた絹袴をつけて、いつも絵具箱をかついで歩いて居た』(坂本繁二郎、画集追想記)

…青木は、戦争もたけなわ明治三十七年七月四日には、東京美術学校西洋画科選科を卒業……式で来賓の大久保文部大臣は、「振古未曾有の時局」に際して卒業する一同を激励している。…こうして学校を卒業した青木には、いよいよ憚かるところなく自由に大胆に画想をのべるときがきた。…房州布良へ写生に出かけて…この写生旅行はいろいろな意味で青木の生涯の一つの大きな峠となった…一漁村に、自分を崇拝する女性や親しい友人と行をともにした青木が、どれほど張りきった状態にあったか…」

  • 調査ポイント(「河北」調査研究とする)

a. 千駄木時代に同宿した森田は「庄野君」が時々遊びに来たという。「大倉と庄野」に関わる「高島証言」には、「庄野」と青木・森田が知り合いであったという話がない。庄野宗之助は太平洋画会のメンバーであり、森田と交流があったうえに、青木とも1903(明治36)年頃の千駄木の下宿で森田に紹介され、交流が生まれた。すでに布良に写生旅行にいったことのある庄野や森田らは、青木が求めるイメージをもつ場所と紹介した可能性がある。

b. 梅野によれば青木が親からの学資送金があったのは、1899(明治33)~1901(明治34)年の1年4ヶ月という。1902~03(明治35~36)年の「窮乏」の時代は、梅野や森田などの仲間以外に、その窮乏を支援していた人がいたのか。考えられるのは、キリスト教会関係者などである。後に青木は千駄ヶ谷にあったセブンデーアドベンチストの教会で、フイルドという牧師から洗礼をうけたという。梅野満雄宛の書簡には「過日、僕はクリスチャンの洗禮を受けた」とある。(「美術研究作品資料第3冊 青木繁《海の幸》」のなかの「青木繁年表(植野建造遍)」『青木繁全文集 仮象の想像』の梅野宛書簡(明治40年7月2日付)

③青木繁の関係者の証言

A.坂本繁二郎

坂本繁二郎は「自分の目撃談」を青木に話したことが制作のきっかけであったと証言。

『私の絵 私のこころ』1969(昭和44)年 日本経済新聞社

「…明治三十七年の夏、私は青木と彼の愛人である女画学生福田たね、それに森田恒友の四人で千葉県の布良海岸に写生旅行に出かけました。黒潮と太陽とはてしない水平線に圧倒きれながらも私たちの心は躍動したものです。青木には、秋の白馬会展を目ざして、日本の古典からヒントを得た「海の幸」「山の幸」の二部作をものにする野心が初めからあったようです。

あるナギの午後、私は近くの海岸で壮大なシーンに出会いました。年に一、 二度、あるかなしゃの大漁とかで船十余隻が帰りつくや、浜辺は老いも若きも女も子供も、豊漁の喜びに叫ぴ合い、夏の目ざしのなか、懸命の水揚げです。…夜、青木にその光景を伝えますと、青木の目は異様に輝き、そこに「海の幸」の構想をまとめたのでしょう。翌朝からは大騒ぎのうちに制作が始まりました。他の三人はもっぱら手伝い役。こちらの迷惑などはお構いなしで、モデルの世話だ、画材の買い入れだと追い回されました。青木独特の集中力、はなやかな虚構の才には改めて驚かされましたが、 あの「海の幸」は絵としていかに興味をそそるものとしても、真実ではありません。大漁陸揚げの光景は、青木君は全く見ていないはずです。現実に情景がまるで異なり、人も浜も海も実感とは違っています。彼は私の話を聞き空想で描いたのです。実際は船から降ろす小魚は女子供がざるに受け、大魚はわたを捨てたのを、血をしたたらせながら背に荷うのです。 すさまじいばかりの色彩と動の世界がそこにあったのです。青木がそれをじかに見ていたら、もっと絵は違ったものになっていたでしょう。

  • 調査ポイント(「坂本」証言とする)

a. 「海の幸」「山の幸」の二部作をものにする野心が初めからあった」意味は。

b. 「年に一、 二度、あるかなしゃの大漁とかで船十余隻」と小谷家

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青木繁「海の幸」誕生と日露戦争の時代  1.これまでに書籍に記載される「通説や証言」をみる  (1)青木の布良訪問の背景をさぐる 愛沢 伸雄

 青木繁「海の幸」誕生と日露戦争の時代               

                                                           愛沢伸雄 (NPO法人安房文化遺産フォーラム 代表) 

1.これまで書籍に記載される「通説や証言」をみる
(1)青木らの布良訪問の背景をさぐる

① 「福田たね」が後年に語ったこと

                               (1961(昭和36)年6月19日談話・抜粋)

● 調査ポイント(「福田証言」とする)
a.小谷家が「4人家族」と「使用人4名」。おじいさんが亡くなった直後か。
b.「旅館(吉野屋)」に一泊。
c.森田か坂本かの知り合いの「田村という医師」を通じて小谷喜録宅に。

②  通説「なぜ青木らは布良に行ったか」

    通説では、高島宇朗の母方の叔父「大倉正愛」とその友人「庄野宗之助」がたびたび布良に写生旅行していたことで、高島は布良を紹介され訪問している。その際に大倉が定宿にしていた「柏屋」に高島も泊まった。そこで青木に布良の良さを伝えて、「柏屋」を紹介したとなっている。
※ 青木繁(20歳)の友人である高島宇朗が『せゝらぎ集』(文明堂1902(明治35)年6月)出版したが、布良を題材にした詩が掲載(「布良告別歌」「鏡浦告別歌」など)

A.河北倫明が高島宇朗に直接、取材して執筆

『青木繁 生涯と芸術品』(養徳社1948(昭和23)年)と高島宇朗『新美術』第1号(1941(昭和16)年9月)では。(美術研究作品資料第3冊 青木繁《海の幸》田中淳「《海の幸》誕生まで」

「布良に、青木を紹介した由来をおもふと、宇朗に布良を教へた二人、母方の故叔父大倉正愛氏、友人庄野宗之助氏を挙げざるを得ない。故叔父は、創立時の太平洋画会員で、度度、宮内省御買上の光栄に浴した、海好きの、よく出かけた三浦三崎が要塞地帯になり、布良に場がへした、布良草分けの一人とも云ふべき、謹厳にして温厚なる君子人。庄野氏も、青年の、同会員で、後に、叔父と布良に同行した人。
宇朗は、この二人から、布良の話、人情の淳朴、黒潮海洋の豪宕など、沢山に聞かされて、胸を躍らい、まだ、汽車は無かった頃の、霊岸島から、定期船に乗って往って、二度ほど、布良に滞在した。正愛叔父は、定宿の柏屋一家から、非常な尊敬を受けて居たし、つながる宇朗も、多少の親しみと、信用とを得て来たので。
また、宿の親戚、郵便局長の川上氏の息子に、たのまれて、英語の手ほどきをしてやった縁などあり。青木が布良に行く時には、そこで唯一軒の旅館であった此の柏屋と、隣の川上氏とに、情を尽して、紹介依頼の手紙を、ことづけたが。
この親切な柏屋で、青木等に、小谷某の家の間借りの周旋をしてくれたのだ。
布良に就いて、語りたいことは、いくらもいくらもあるけれど、ここらで止めるが。」

● 調査ポイント(「高島証言」とする)
a. 「三浦三崎が要塞地帯となり、布良に場がへした」
b. 大倉とその友人庄野と布良に写生旅行。大倉の定宿「柏屋」
c. 郵便局長の「川上」と、その息子
d. 「柏屋」や「川上」とに依頼の手紙、「柏屋」が「小谷某の家の間借りの周旋」

B.森田恒友、東京美術学校1年生時の写生旅行(1902(明治35)年)

森田は、すでに房総に出向いた際に、布良にいったことがあったかもしれない。

「房総海岸」 年月不詳
※ 布良海岸か、もしくは根本海岸ではないかと思われる風景である。

『森田恒友青年期素描集20歳~21歳』 昭和62年 限定700部
「森田恒友・廿歳の素描」森田恒之(恒友の孫)

青木繁「海の幸」誕生と日露戦争の時代 愛沢 伸雄

2017年3月

青木繁「海の幸」誕生と日露戦争の時代   

                                             愛沢伸雄 (NPO法人安房文化遺産フォーラム 代表) 

   日本を代表する洋画「海の幸」は1904(明治37)年夏、40日余り小谷家に滞在した青木繁により描かれた。この画家は河北倫明氏をはじめ数多くの研究者によって世に出され、「海の幸」は日本美術史に位置付けられ国重要文化財となった。

                       【石橋財団ブリジストン美術館蔵】

    ところで2005年から館山市富崎地区では、漁村のまちづくりのなかで小谷家住宅を市有形文化財とし、地元はもちろん全国からの支援により小谷家住宅修復事業に取組み、青木繁「海の幸」記念館として開館した。その経緯のなかで小谷家からは明治期の水産業など、地域の人びとの動きがわかる貴重な資料が発見された。

    これまで青木繁「海の幸」誕生について、明治期の館山・富崎の地を踏まえた地域史からの視点、あるいは日露戦争の時代のなかで小谷家に関連する人びとや漁村の文化的な交流の視点からの考察はあまり見かけない。つまり「海の幸」誕生の背景は、美術史的な視点や青木繁の関係者のみの証言で組み立てられてきた。

    この報告では発見された資料から青木繁が訪れた布良の地や小谷家に関連する人びとの姿、また「海軍望楼」などの軍事施設や「帝国水難救済会布良救難所」の設置、ときに軍事演習の地であった景勝地・布良の姿、とくに日露戦争下にあって布良沖のウラジオストク艦隊の動きによる危機的状況などを明らかにしたい。さらに富崎の人びととの交流にふれ、なぜ40日余りも小谷家に滞在し絵画制作が可能であったかを地域の視点から考察してみたい。

目 次

1.これまでに書籍に記載される「通説や証言」をみる

  (1)青木の布良訪問の背景をさぐる 

         (2)「海の幸」誕生の背景をみる

 

2.小​​谷家資料や国会図書館にある明治期の「布良」を紹介した資料

  (1)青木繁が訪れた景勝地・布良 

         (2)布良の医者

 

3.青木繁が滞在した小谷家をさぐる

  (1)小谷喜録とその家族

  (2)小谷喜録の生涯をみる  

        (3)石井家の人びと

 

4.日露戦争のなかの「布良海軍望楼」と「帝国水難救済会布良救難所」

  (1)東京湾要塞の最前線「布良」 

        (2)日露戦争勃発と要塞の地「布良」での動き

  (3)「帝国水難救済会布良救済所」と日露戦争

 

5.日露戦争時下の富崎の民衆と青木の姿

  (1)富崎・漁村の姿をみる  

        (2)漁村のまちとくらしをみる

  (3)地域と青木繁から日露戦争を考える

 

 

 

 

 

平井希昌【前代未聞の葬列の大移動】 終了のお知らせ by長尾佐栄

平井希昌【前代未聞の葬列の大移動】終了のお知らせ by長尾佐栄

ブログ「安房国再発見」に【前代未聞の葬列の大移動】平井希昌(その1)から(その28)までを投稿してきた長尾佐栄です。ペンネームである作者長尾佐栄は、すべての作品とペンネームの公開が終了したことをご報告いたします。長年にわたってご愛読いただき深く感謝しております。2016年12月吉日

 

 

 

 

 

 

明治期・館山の殖産興業と小原金治

                     2013年12月

明治期・館山の殖産興業と小原金治  

                                   愛沢伸雄(NPO法人安房文化遺産フォーラム代表)

明治期に千葉県議や衆議院議員であった小原金治は、安房銀行(千葉銀行の前身)や房総遠洋漁業(株)の設立や経営に関わっていたので、安房の殖産興業をたどるうえで重要な人物でした。金治の生涯については、資料に乏しく不明な点が多いのですが、最近、館山市南条の生家(村上宅)から自筆の『自叙伝草稿』(以下、「草稿」)の断片が発見され、生涯の一部分が明らかになってきました。この「草稿」の内容と、明治期の天才洋画家青木繁が逗留した富崎の小谷家住宅から近年発見された水産資料を通して、明治期・館山の殖産興業を概観してみます。

小原金治は、1859(安政3)年に旧南条村の豪農であった父桂助と母かよの長男として出生しました。12歳で館山藩士であった叔父小原(大館)義直から初めて読み書きを学んだといいます。後述しますが、館山藩と関わっていたことが地域のさまざまな人脈につながっていきます。少年期から22歳までを見ると、幕末や維新動乱期に若者たちがどのような思いでいたかの一端がわかります。家族労働での農業の傍ら、実に自ら学びのために動いていることです。記載されている人物は、石橋磯吉や豊前寺住職宥海、根岸久勝、新井大吉、山田桃渓などの館山に住む漢学の師を訪ねて勉強しています。なかでも根岸久勝は八幡村名主であり、1848(嘉永元)年から1871(明治4)年まで鶴谷八幡神社の近くで私塾「根岸学舎」を開いていた人物でした。また、新井大吉は新井文山(1779(安永8)~1851(嘉永4)年)の息子と思われ館山藩校の教授でした。なお、新井文山は館山藩主稲葉正巳の重臣になった儒者で、幕府の昌平坂学問所総長(儒官)佐藤一斎の門弟として全国的なネットワークをもっていました。

金治が21歳のときに大きな転機が訪れました。それは金銭問題で裁判所に民事訴訟をおこし勝訴した出来事があったからです。折しも自由民権の嵐が吹き荒れていた時代であり、政治を見る眼や法律に強い関心をもって、北条村において何回か開催されていた民権派の演説会に参加しています。東京からは大隈重信の片腕であった小野梓や経済学者の田口卯吉が来房し、地元からは県議の小原謹一郎や布良村の若手活動家の満井武平らが熱弁をふるっていました。それらを見聞したことが政治の世界に入っていくきっかけになったと思われます。

激動する明治初期に22歳の金治青年は大きな志をもって上京しました。当時、著名な漢学者の岡千仭(鹿門)の塾に通い、夜学の法律学校で学んだといいます。しかし、3年後に父が重病になり、やむなく帰郷しています。その頃北条村で開催された民権派演説会において、金治は弁士の一人になっており、それらの活動のなかで1884(明治17)年には南条村会議員に選ばれています。

村会議員の時代、無法状態にあった房州白土採掘とその土地所有について村民から相談を受けました。その経緯のなかで金治は県や国に働きかけて村民としっかりとした契約関係をもつ白土会社を立ち上げたのでした。「安房坑業会社」と呼ばれた白土採掘会社は、「東洋煙草大王」の異名をもつ岩谷松平が社長となり、地元からは金治自らが取締役となりました。最近、源慶院からこの白土採掘会社と契約を結んだ当時の吉田智道住職との間の契約証書が発見されました。

岩谷は松岡村出身の福原有信とともに東京・銀座で活躍していた経済人で、後に東京選出の衆議院議員になっています。さまざまな商品を扱った全国的な商社の岩谷商会と関わり、金治は初めて実業を学んだと記載しています。金治の身近にいた親しい政治家は、館野村出身の県議小原謹一郎でした。この人物は公共事業的な海運業を訴える正木貞蔵に共鳴して、安房汽船会社を創設していますが、運賃競争に敗れて大きな負債をかかえて36歳で亡くなっています。また、金治には盟友であった満井武平を通じて、彼の叔父である富崎村長神田吉右衛門との交流がありました。

1890(明治23)年、金治と満井はともに県議に当選し、二人は力を合わせて安房の殖産興業の発展に取り組んでいきました。当時、日本水産界のパイオニア関澤明清や地元水産業の代表的な人物である神田吉右衛門らは、自らの手で近代的な水産事業のあり方を模索していました。満井は大隈重信の立憲改進党に入っていきましたが、金治は党派にこだわらない政治的な立場をとっていました。しかし、県議3期目になった35歳の金治は、盟友の満井や角田真平(号竹冷)の仲介により大隈重信と会見して、その後は大隈の理念に共鳴し立憲改進党の一員となっていきました。

衆議院の解散後、安房の候補者選定のなかでは、大隈の側近岡山兼吉らの説得もあり、金治は県議を辞して改進党候補者に擁立されました。1894(明治27)年、日清戦争勃発の年の9月におこなわれた第4回衆議院議員選挙に立候補しました。立憲改進党から重鎮の島田三郎らが応援に入るなど、安房国改進党は金治の当選のために全力をあげて取り組み、自由党の加藤淳造を押さえて見事当選しました。

日清戦争の最中のなかで注目される記載が「草稿」に見えます。後に東京株式取引所理事長になった同僚議員角田真平の仲介によって、金治が勝海舟と会見したとのことで、そこでは日清戦争と国政のあり方について懇談して、勝海舟の髙い見識には驚いたと書いてあります。

1897(明治30)年までの3年間の国会議員の活動で、明治期安房の歴史的な出来事では注目されることが三つあります。その一つが神田や満井らの水産業改革を応援しながら、関澤明清が館山を中心に取り組んでいた先駆的な遠洋漁業を奨励する法律に関わっています。二つ目は県議時代より正木貞蔵らが取り組んできた公的な海運事業「安房団体」を組織したことです。水産業の振興のためには安定的な海運業の振興が重要でしたが、常に資金的な課題を抱えていました。三つ目に金治は殖産興業の資金を調達していく金融機関設立が安房には急務であると安房郡長の吉田謹爾に相談していました。吉田の義父は館山藩士で金治の叔父と仲間でした。8歳年長の吉田とは金治が村議や県議の時代から強い結びつきがありました。金融機関を設置していく方策では、金治や吉田は安房出身で大物の大蔵官僚であった曽根静夫国債局長に相談したと思われます。曽根は日清戦争期に戦時国債の発行で戦費調達に成功させた人物として金融界では大きな影響をもっていました。金治と吉田と曽根の三者連携のもとで安房ゆかりの企業人であった福原有信や浅田正文らを発起人にして、1896(明治29)年に現千葉銀行の前身でもある安房銀行がスタートしました。

謹厳実直で実務派の吉田謹爾は郡長を辞めて専務取締役として全てを仕切っていきました。この年に金治は病気になって快復後も体調に自信がなかったのか3年間で議員生活を終えています。しかし、地元では先頭に立って本格的な安房の殖産興業の取り組んでいきました。1897(明治30)年、館山においてモデル的な遠洋漁業事業を実践し企業化のきっかけをつくった関澤明清が志半ばで急逝しました。関澤の実弟鏑木余三男は、その遺志を継いで房総遠洋漁業株式会社の創設を呼びかけました。翌年には安房銀行の資金や国からの遠洋漁業奨励金が投入されて、北洋のオットセイ・ラッコ猟を主とする本格的な漁業会社が設立され、金治は社長に就任しました。

近代的な水産業を模索していた盟友満井の叔父神田吉右衛門は、富崎村長として数多い遭難漁民の救済や鮪延縄船改良の施策をはじめ、鮑組合の収益を教育など公共事業のために使い、人びとに敬愛されていました。また、「資生堂」創業者の福原有信は帝国生命保険会社の設立にも関わっており、1894(明治27)年には社長となっています。当時安房郡長であった吉田謹爾らは遭難者家族救済のための保険事業の推進を呼びかけていきます。神田も全国でも先駆けて遭難者救助積立金制度や布良同盟保険をつくり、福原有信の帝国生命保険会社と連携した取り組みをおこなっています。実はこの動きが人びとの貯金制度などのきっかけとなり、不安定な金融業のなかにあって地域密着型の安房銀行は、強固な経営基盤をつくり地域振興に大きな貢献をしていきました。

その後も小原金治は、安房に関わる金融・経済人などさまざまなネットワークを通じて地道に地域の殖産興業に努め、吉田謹爾が亡くなった1914(大正3)年には安房銀行頭取を引き継いでいきました。千葉県内の金融界の重鎮として千葉銀行創設に安房の地から一石を投じるなか、1939(昭和14)年に79歳で没しています。

福原有信と明治期の館山~「没後90年」になる福原有信

                     2013年12月

福原有信と明治期の館山~「没後90年」になる福原有信

愛沢伸雄(NPO法人 安房文化遺産フォーラム代表)

福原有信は1848(嘉永元)年、安房国松岡村(現館山市竜岡)で父有琳・母伊佐(明石村豊岡家)の四男(長男陵斉・次男栄蔵・三男元栄・四男有信)として出生し、幼名を金太郎といいました。

福原家は代々医者(市左衛門・菩提寺見院)で、有信の父有琳は医者ではなかったが、祖父有斉から長兄陵斉に家業が受け継がれていました。1863(文久3)年に陵斉が26歳という若さで亡くなり、翌年正月には祖父有斉が亡くなりました。16歳になっていた有信には家業を継ぐことが求められ、1864(元治元)年に上京して、親戚の医者を頼って緒方洪庵の高弟織田研斉の門に入りました。

幕末という動乱の時代にあって織田門下で修業しながら、幕府医学所において西洋薬学を学んでいきました。その後、幕府医学所頭取の松本良順(佐倉藩順天堂総裁佐藤泰然の次男)に認められ薬学の専門家として頭角を現していきました。

明治に入って海軍病院薬局長を経て、1872(明治5)年には、23歳で東京銀座に「洋風調剤薬局資生堂」を開業することになり、有信は医薬分業の礎を築いていきました。医薬分業を法制化するために「日本薬局方」の制定には大きな精力を傾けるとともに、日本で最初の近代的な製薬工業をおこし、1885(明治18)年に大日本製薬会社の創設に関わっていきました。

その間、日本最初の練歯磨「福原衛生歯磨石鹸」は好評を博して資生堂の名が高まっていきますが、薬品類だけではなく日常の生活衛生用品や化粧品の製品開発もおこない、今日の資生堂の源流をつくっていきました。1889(明治22)年に不十分ながらも薬剤師制度ができたことで、「日本薬剤師会」が結成され、医薬分業の先駆者として有信は初代会長に推挙されています。

そして、前年の1888(明治21)年には「帝国生命保険会社(現朝日生命保険)」の創設に関わり、1893(明治26)年に社長となっています。なかでも安房の漁民の水難救済事業に貢献したことが、小谷家からの水産資料から明らかになっています。

また、1896(明治29)年に安房銀行(現千葉銀行)設立の発起人となり、松岡村を通じて安房の殖産興業を支え、ふるさとの発展に力を注ぎました。1898(明治31)年には、有信の長女とりが館山病院初代院長川名博夫に嫁ぎ、松岡村だけでなく館山町においても長女とりを通して深い絆が築かれていきました。後に関東大震災によって館山病院が壊滅的な打撃を被ったとき、有信は全力で地域を支援し館山病院の再建に大きな役割を果たしました。そのようななかで療養型サナトリウムをもつ病院がある館山は、転地療養の地として全国的に知られるようになり、銀座資生堂が館山病院の東京営業所になっていたのです。

なお、有信は財界の重鎮渋沢栄一との交際がありましたが、有信の四女美枝が渋沢の次男武之助に嫁いだことで姻戚となり、さらに深い関係となっていきました。渋沢栄一が渡米した際には、館山病院2代目院長穂坂与明が侍医となって随行しています。後年、資生堂を託された長男信一は若くして亡くなったものの三男信三に受け継がれ、今日の資生堂繁栄の基礎がつくられました。

有信は明治から大正の激動する時代にあって、帝国生命保険会社経営を安定させながら、生命保険会社協会理事会会長として保険思想の普及のために全力を挙げていたなか、関東大震災に遭遇し大きな被害を受けました。その再建の最中、翌1924(大正13)年に77歳で没しました。

生誕の地の松岡八幡神社には、「明治四十四年 福原有信」と刻まれた鳥居や、1995(平成7)年建立の資生堂ゆかりの記念碑があります。また金毘羅様を祀る裏山の鳥居には「松岡 福原栄蔵 布良 木高太治郎」と刻まれ、富崎地区布良の漁民たちと深い関係があることがわかります。さらに遍智院(小塚大師)には「福原之墓(明治四十二年福原栄蔵建立)」があり、有信・徳子夫妻の名が刻字されているとともに地域での福原家の人脈を読み取ることができます。この碑の横には有信の父有琳・母伊佐の墓石と、若くして亡くなった兄陵斉の墓石があります。(愛沢 伸雄)

祝!千葉県文化財保護協会より表彰

このたび、NPO法人安房文化遺産フォーラム代表の愛沢伸雄が、

千葉県文化財保護協会より、長年にわたる文化財保護の功労を表彰されました。

【功労の内容】  本年1月、館山市所在の戦国大名里見氏「稲村城跡」が国史跡に指定され、保護・活用の環境が整った。稲村城跡については、市道路建設計画が具体化し破壊直前の状況にあったが、愛沢氏は「里見氏稲村城跡を保存する会」を立ち上げ、氏が世話人代表となって保存運動を展開、存在の意義や文化財的歴史的な価値観・重要性を強く訴えてきた。「保存する会」は会員数100余名、城跡内の定期的な草刈りをはじめ、展示会・ガイドブックの作成、案内板の作成、現地案内や学習会、冊子の刊行、周辺重要城跡の見学会等々、16年の長期に亙り様々な活動を行ってきた。こうした活動は内外の賛同を得、行政も請願を採択、国史跡指定への原動力となった。これまで「館山市稲村城跡調査検討委員会」委員をつとめ、本年より「館山市稲村城跡保存・管理計画策定委員会」委員の委嘱を受け、市民代表として保存・整備計画に取り組んでいる。また、教員在職中から安房地域における戦争遺跡の調査・研究をすすめ、このうち赤山地下壕が館山市の史跡指定を受けるなど、氏の文化財保護に尽瘁した功績は極めて顕著である。

【御礼挨拶】 御礼挨拶:H24千葉県文化財保護功労賞