平井希昌(その27)【前代未聞の葬列の大移動】マリア・ルーズ号奴隷231名IN【希昌編纂〔万国公法〕→澤宣嘉外務卿→外務省へ】 by 長尾佐栄

平井希昌(その27)【前代未聞の葬列の大移動】マリア・ルーズ号奴隷231名 IN 【希昌編纂〔万国公法〕→澤宣嘉外務卿→外務省へ】                           by 長尾佐栄

 

平成28年5月8日快晴(日)

      〜知友と私〜

 

「ちょっと調べてきたんだ…」と言って、

知友がテーブルの上に(文書権正)【平井希昌】の資料を置いた。

今日は、駅前通りの外れにある私の小さな設計事務所で、

午前中から知友と〔素人歴史探偵団〕の続きをやることになっていた。

二人とも30歳半ばを過ぎても独身で…呑気者同士だった。

 

「明治5年6月に奴隷«231»名を乗せた【マリア・ルーズ号】が、

横浜沖で漂っていた事件にも【平井希昌】は関わっていたのか…」と私。

 

「そう…、外国船の事件勃発で開国明治政府も大いに慌てた様です。

近代国家樹立の為に右手を突き上げて…あれもこれもと改革を進すめていたし、

左手では不満武士たちの鎮圧に力を注いでいた!…」と知友。

 

「そうだね、この資料によると明治政府は触らぬ神に祟りなしと、

【見ザル聞ザル言わザル】を決め込みたかった様だね…」と私。

 

「うん、しかし…当時の外務卿【副島種臣】(そえじまたねおみ)は違ったんです!

外務卿とは、すなわち外務大臣だよなっ。

初代外務卿が【澤宣嘉】、次が外務卿【岩倉具視】、

直ぐに引き継いだ3代目外務卿が【副島種臣】。

この3代目は…そんな事で退く様な男ではなかった!」と、

知友がキリリッと目を光らせた。

 

「へぇ〜、退くどころかハリキッちゃたのかっ…」と、私は笑った。

 

「そう、同郷の佐賀藩出身【大隈重信】は、

自分より10歳先輩の尊敬する【副島種臣】が[日本初の国際事件]のために立ち上がったならば、

もはや誰にも…止められないだろうと思った様だ」と知友。

 

「強い信念の人なんだ。

ところで…、【前代未聞の葬列の大移動】を起したのは、この【副島種臣】だよね」と私。

副島種臣

副島種臣

何禮之

何 禮之

「そうだよ!明治29年2月15日、【平井希昌】は58才の若さで亡くなった。

この葬儀の日に、【何礼之】(がのりゆき)と共に列席していたのが【副島種臣】です。

二人は、愛宕の〔青松寺〕で、大法要が始まる直前に!

葬儀委員長の【西園寺公望】(さいおんじきんもち)侯に向かって、

『墓所が狭い…別の寺へ移動したい!』と、前代未聞の申し出をしたんだ…」と知友。

 

「う~ん…故【平井希昌】のために〈石碑〉を建立するつもりでいた二人は、

〔青松寺〕に着くと…直ぐに墓所へと案内をしてもらきました。

しかし…この後で、騒動が始まるんだよね」と私。

【平井希昌】墓所

【平井希昌】墓所

DSC_0431 DSC_0429 DSC_0430

「そう…<石碑>は2畳以上と決めていた。だから…それを建立するのには、

〔青松寺〕の墓所は狭かったんです。

その上…敷地は〈20畳〉は欲しいという、飛んでもない要望だったんだ。

『2畳以上の<石碑>を【平井希昌】のためにどうしても建立したい!』と、

葬儀委員長【西園寺公望】侯に懇願をしたんだ」と知友が応えた。

 

∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽

知友は、故【平井義十郎(希昌)】の子孫に当たる【平井靖人】社長に気に入られていた。

だから…知友は【平井靖人】社長に資料提供をお願いして、

2年前から私と二人で、【平井義十郎(希昌)】を知るために、

〔素人歴史探偵団〕を立ち上げて出発した。

 

∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽

 

【副島種臣】が「<石碑>の篆額はこの私が渾身の思いで書く!」と言うと、

【何礼之】(がのりゆき)は「ならば、故【平井希昌】の履歴を撰文致しましょう」と、

唇を引き締めた。

光林寺

光林寺

光林寺

この※【何礼之】(がのりゆき)は、物静かだが芯が強い…ただ者ではなかったのです!

幕末時…【勝海舟】の通訳を兼ねて、

後の〔東京大学〕の基となる※〈開成学校〉の教授でもあった【何礼之】。

 

「二人の最強コンビは、言い出したら効かない…やってのける…」と、

知友が言った。

「う~ん、しかし、葬儀の列席者は国を代表する著名な人々ばかりだからなァ~、

粛々と進行していた葬儀委員長の【西園寺公望】侯は怒っただろうよ…」と私。

 

「【西園寺公望】侯は、

明治元年の頃に、長崎の済美館の学頭【平井義十郎(希昌)】からフランス語を学び、

その後、東京でも再び学び、留学生としてフランスへ向かっている…。

だから【西園寺公望】侯にとって、故【平井希昌】は師であった」と、知友。

 

「だが、この二人は…我々が持てない様な強運の持ち主でもあったのです!

何故なら1区画〈20畳〉もの敷地を持つ資産家〔起業家人名辞典に掲載〕【林錦次郎】が、

官僚の【岩谷修(一六)】と共に〔青松寺〕の門前に近付いて来ていたんだ!」と、

知友は昼食のパンをかじり、コーヒーを飲みながら語った。

DSC_0521

岩谷 修

開け放された事務所の窓からは、柔らかな午後の風が入って来ている。

食後の休みを充分取ってから、再び〔素人歴史探偵団〕を開始した。

∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽

故【平井希昌】の大法要では、

200名以上の著名人が狸穴(まみあな)の屋敷を訪れている。

ただ3名の人物は、都合があって〔青松寺〕の法要に列席していない。

その3名とは、【松方正義】(元内閣総理大臣)、【徳大寺実則】(西園寺公望の兄)、

そして【西郷従道】(西郷隆盛の弟)であった。

松方正義

松方正義

徳大寺実則

徳大寺実則

西郷従道

西郷従道

∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽

「これが…その大法要に列席した人々の一部だよ」と、

知友が資料を私に差し出した。

 

∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽

=法要列席者名簿の抜粋=

【西園寺公望】【大隈重信】【土方久光】【山県有朋】

【原敬】【大給恒】

【副島種臣】【何礼之】

【榎本武揚】【山尾庸三】

【徳川茂承】【松平頼和】

【細川潤次郎】【高崎正風】【伊藤博文の娘婿】

【伊藤博文の娘達】

【故人岩倉具視の息子】

【故人岩倉具視の婿養子】

【故人柳原前光の息子】

【伊東巳代治】【花房義質】【佐野常民】【渡辺洪基】

【三好重臣】【鮫島武之助】【中川小十郎】【赤松則良】【品川弥二郎】【柳谷謙太郎】

【福地源一郎】【岩瀬弥四郎】【伊藤祐殼】【伊藤弥二郎】【稲葉順通】【松尾臣善】

【五辻長仲】

【エドアルド・キヨソネ】

【平田彦四郎(道仁)】

【石橋思案】【秋元興朝】

【石井菊二郎】【早川千吉郎】【和田伸郎】【香川啓三】

【神田乃武】【狩野忠信】

【河合利安】【川村純義】

【芳川顕正】【陽其二】

【横田香苗】【田中建三郎】【谷謹一郎】【多久乾一郎】【田尻稲次郎】【高島鉄三郎】

【田口乾三】【谷森真男】

【高橋新吉】【高木甚平】

【添田壽一】【角田喜三郎】【中川外次郎】【中隈敬蔵】【永嶺源吉】【中牟田倉之助】

【中村雄飛】【目賀田種太郎】【南郷茂光】【中野健明】

【長岡護美】【永田愛之丞】【長松幹】【名村泰蔵】

【長崎省吾】【村木義方】

【牟田豊】【上田安三郎】

【上野太一郎】【野村宗十郎】【大内定也】【大越成徳】

【太田長四郎】【大木宗保】【大谷靖】【尾崎三良】

【岡田好樹】【隈本栄一郎】【黒田綱彦】【倉田吉祠】

【久保久行】【山本達雄】

【山根正次】【安川繁成】

【山内勝明】【安田登】

【山口弘達】【増井増次郎】【藤井善言】【藤田四郎】

【藤田武二郎】【古川常一郎】【福田循誘】【深津正粥】

【駒井重格】【小西有勲】

【青木休七郎】【赤羽武次郎】【浅井新一】【阪谷芳郎】

【齋藤桃太郎】【宮原諦賢】【宮本小一】【柴田昌吉】

【島田太四郎】【柴田家門】【島田胤則】【品川卯一】

【志賀親朋】【下田喜平】

【平塚定二郎】【平野新八郎】【森田司馬太郎】【森山茂】【迫田七郎】【鈴木孝之助】

【杉孫七郎】等々、

【杉孫七郎】の後にも男爵、侯爵、子爵と、未々続き、

政財界、文芸界へと著名な人びとが続いて行く。

 

∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽

=上記の人々の履歴=

内閣総理大臣、

各大臣歴任者達、

日本銀行総裁、

日本興業銀行総長、

東京帝国大学初代総長、

早稲田大学創立者、

立命館大学創立者、

日本医科大学創立者、

専修大学創立者の一人、

東京芸術大学創設者の一人、

国学院大学学長、

東京農業大学前身創立者、

東京外語校長、

海軍大学校長、

開成学校教授【何礼之】、

宮内大臣、

明治天皇の和歌の師、

上海総領事、満鉄総裁、

日本赤十字社創設者、

日本赤十字社社長、

賞勲局総裁、東京府知事、

狩野派画家、硯友社作家、

海軍副総裁、海軍大将、

海軍軍医中将、

陸軍大将、陸軍中将、

横浜毎日新聞社創業者、

東京日日新聞社社長、

東京築地活版製作所社長、

司法官、大審院検事長、

社会経済学者

枢密顧問官

宮中政治家、

宮中顧問官、

京都皇学所御用掛、

天覧天気図作成者、

サンフランシスコ日本国初総領事、

特許局長、横浜税関局長、

ベルギー・オランダ公使、

各国の公使歴任者達、

横浜駅駅長→崎陽軒創設者へ、平塚雷鳥の父親、

※平井希昌(★勲章)作製指示

東京七宝師(★勲章)

細工師、彫刻家(★勲章)

等々、

∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽

…知友の説明が続き、

「やがて【副島種臣】と【何礼之】の二人は、

葬儀委員長の【西園寺公望】侯を説得して、

名門〔青松寺〕の大法要を終えると、南麻布の名門〔光林寺〕へと大移動を始めるんだ…」

 

∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽

春は名のみ、

明治29年2月15日の夕暮れ時、馬車、人力車、一般列席者、教え子たちは徒歩。

…その長蛇の葬列は愛宕から南麻布迄の長い道中を〔光林寺〕目指して移動し始めた…。

沿道には、驚いた人々が集まり…その圧巻の葬列を何時までも見守っていたと…伝え聞いている。

【平井希昌】の孫娘の手紙抜粋。

 

∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽

「今、外務卿【副島種臣】の人物写真を見ると、現代には見かけられない様な面構えだね!

眼光が鋭い…命を掛けて明治の開拓を担っている。そんな感じが伝わって来るよ。

しかし…その眼光の奥には深い優しさが潜んでいる様だ」と知友。

 

私は写真を受け取った。

「うん…分かる気がする。

明治5年だよね〔マリア・ルーズ号〕事件は。

それまで(文書権正)だった【平井希昌】は、

外務卿【副島種臣】の強い要望で少丞(外務部長)として配下となったんだね。

横浜で〔マリア・ルーズ号〕事件の裁判に陪席して、

【副島種臣】外務卿の指示に従い中丞【花房義質】と共に、

国際法である≪万国公法≫を基に論戦に努めて、これに勝利したとある!」と私。

 

「そう…中丞の【花房義質】は、故【平井希昌】の葬儀にも列席しているんだ」と知友。

花房義質

花房義質

「その頃の【平井希昌】の日記には、【副島種臣】の公用馬車で横浜へよく向かっているね。

丁度【マリア・ルーズ号】の裁判の時代だ。日記の随所に【副島様】…【副島様】…と、

毛筆で書かれてあるよ」と、私は日記の写しを開いて呟いた。

 

※〔平井希昌の日記〕〇掲載

 

知友が説明をした。

「長くなったが…ここに【丸山幹治】という人が書いた「副島種臣」という著書があるんだよ」と、

序文のコピーを差し出した。

 

私は目を通してみた。

「ほう…【副島種臣】外務卿は、〔マリア・ルーズ号〕に対峙するために…

漢訳«国際公法»を精読してペルー国を相手に、

横浜で人権問題を掲げて裁判を起こし〈奴隷231名〉を助け出したと書かれてあるね」

 

「そう!漢訳≪国際公法≫は【平井希昌】編纂の≪万国公法≫の事だよ」と知友。

 

「そうかァ〜!…明治元年4月【平井義十郎(希昌)】が、

発足したての長崎裁判所の運上所に就任したばかりの頃に、

長崎裁判所総督として【澤宣嘉】が赴任して来た。

その【澤宣嘉】が急ぎ≪万国公法≫の編纂をせよと命を下したのか」と私。

 

「そうだ【平井希昌】の日記には、

『万国公法翻訳相済候マデハ万運上所隔日出勤被仰出候事

明治元年辰四月』と書かれて、

『運上所へは隔日に勤務すれば良いから≪万国公法≫を確実に仕上げて欲しい』

との要望であったんです。」

 

「【平井希昌】は弟子たちと共に編纂を始めた。

そして«万国公法»(10巻)が完成すると、【澤宣嘉】総督は【平井希昌】を労い、

«万国公法»(10巻)を東京へ持ち帰った。

その際、初代外務卿(外務大臣)として【澤宣嘉】は、

«万国公法»を外務省の機密書として持ち込んだ。

…この≪万国公法≫は一般に出回らなかったため、事実を知る人は少なかったと…。

九州の大学に【平井希昌】編纂の〔万国公法〕(10巻)が所蔵されているという情報は、

子孫の【平井靖人】社長が教えてくれたんだよ」と知友。

 

∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽

やがて、【平井希昌】編纂«万国公法»は、

【澤宣嘉】外務卿→【岩倉具視】第2代外務卿→【副島種臣】第3代外務卿へと、

引き継がれていった。

 

∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽

«万国公法»

【平井希昌】は、既に幕末の頃から長崎奉行所出島での外国交渉に、≪万国公法≫を用いていた。

また、開成学校(※東京大学)教授【何礼之】から≪万国公法≫は、【勝海舟】の知るところとなった。

そして、江戸湾岸視察時の七卿落ち【三条実美】は、【勝海舟】からの助言を受けて【澤宣嘉】に伝えた。

その後、【澤宣嘉】は長崎裁判所総督として赴き、≪万国公法≫(10巻)は完成したのであった。

※これが明治外交の幕開けとなる重要な出来事となった。

 

やがて【平井希昌】の運命は、長崎から大阪へ神戸へと続き、

東京の外務省へと導かれていく。

明治6年から【明治天皇】の国賓通訳も兼任した【平井希昌】は、

【明治天皇】からの信任は厚く、

【平井希昌】が亡くなる明治29年まで、国賓通訳を替えることはなかった。

 

 

 

平井希昌(その26)【前代未聞の葬列の大移動】 ≪新潟・キング教師へ謝罪見舞い≫ next 【マリヤ・ルーズ号 奴隷 231名 事件】 by 長尾佐栄

平井希昌(その26)【前代未聞の葬列の大移動】 ≪新潟・キング教師へ謝罪見舞い≫ next    【マリヤ・ルーズ号 奴隷 231名事件】                                                                                              

                                                                                                                                                                                      by 長尾佐栄

明治4年5月2日

-新潟県出張被仰付候事-

 

この日【平井希昌】は、

イギリス公使館<専属医師>を伴って東京から新潟へと急ぎ向かっていた。

幸いにも季節は春、風も心地よく…新緑の山峰がどこ迄も続いて行く。

外務省の公用馬車に揺られながら【平井希昌】は緊迫した思いの中、

春の景観がしばしのなぐさめと見つめていた。

 

既に…【希昌】自身、「官を辞して長崎へ戻る…」という固い決心と願いは、雲散霧消していた。

 

二日前の深夜…外務省で。

【澤宣嘉】外務卿 (初代・外務大臣)

【大隈重信】参議

【副島種臣】参議

その3名が声を揃えて、

断固…「【平井希昌】は中央政権の太政官として任務に励む様に」と、命を下したのだ。

 

【希昌】自身も、今日は…心を定めての 新潟行きだった。

 

新潟へ到着すると、

早速、役人の案内で病院へ赴き、御雇英国人【キング】教師を見舞った。

東京から同行した英国公使館の専属医師も急ぎ怪我の手当を行った。

明治4年4月25日の早朝に起きたこの事件を、御雇英国人【キング】教師が、怒りを込めて語り始めた。

「その日の早朝…突然!男が侵入して来たのだ。

起きろ!と言われて、慌てて立ち上がった私に、日本人の袴姿の男が刃物で斬り付けてきた!

不意をつかれながらも私は大声で叫び抵抗した!

その騒ぎに旅館の主人達がバタバタと駆け込んで来た…but…男は慌てて逃げて行ってしまったのだ!

旅館の者達があとを追い掛けたが見失った!!」と、

【キング】教師は語るうちに激昂してきて、側にいた地元の役人達を震える手で指差し、英語で罵倒した。

 

【平井希昌】は、

流暢な英語で日本の暴漢の行為を深々と詫びた…。

【キング】教師の母国英国は、日本の殖産事業発展のために極めて重要な相手国だったのだ。

 

※英国公使【ハリー・スミス・パークス】は、この時期、英国へ帰国中だった。

 

明治政府は、この英国公使【ハリー・スミス・パークス】という手厳しい人物の怒りを恐れていた。

今、彼の主導の下で日本初の鉄道敷設(レール)工事が進められていた。

既に、建築師長の御雇英国人【エドモンド・モレル】もセイロンの鉄道敷設工事を終えて、

日本の工事指導に入って来ていた。

御雇英国人【エドモンド・モレル】は…後に、

※『日本の鉄道の恩人』と讃えられて、横浜の外人墓地に眠る。

 

【平井希昌】自身も、

この御雇英国人【エドモンド・モレル】と昨年まで、<神戸~大阪>区間の鉄道敷設工事にたずさわり、

【大隈重信】

【伊藤博文】

【井上馨】等々に、

鉄道敷設工事の進捗状況を書簡で送っている。

また、この莫大な鉄道資金は、英国のオリエンタル銀行からの協力を得ていた。

そのため…、新潟県の御雇英国人【キング】教師は、明治政府にとって大切な招客だったのだ。

 

しかも、来年には新橋駅から横浜駅まで「陸蒸気」(おかじょうき)が開通することとなり、

その鉄道式典が控えていた。

 

【平井希昌】は、怒り心頭の【キング】教師の心が落ち着くのを待っていた…。

やがて…夜に成り、ようやく、事件当日の様子を聴取する事が出来た。

「その人物は、背が高く…青白い顔立ちだったのですね…歳は30歳ぐらい…そして藍色の着物姿で紋所も入っていた。

しかしながら…その紋所の絵柄迄はわからなかった。

髪型は日本風…成る程、そして堅縞袴をはいていた…」

【平井希昌】は英語での聞き取りを終えて、

【キング】教師に向かって何度も深く詫びてから…両手をついて陳謝した。

かたわらには、東京から前日に到着していた刑部省の刑事達が、

【平井希昌】の聴取した日本語の筆跡を書き込んでいた。

 

事件当日、駆けつけて来た新潟県の役人達や通訳、巡査達も、

傷を負いった【キング】教師の怒り狂った英語と、たどだどしい日本語では、

正直ちんぷんかんぷんであり聞き取る事など出来なかったのだ。

この言葉の弊害により、捜査は後手後手に回ってしまった…。

 

英国公使館[専属医師]は【キング】教師の腕に手を添えていたわっていた…。

【キング】教師は、東京の刑部省の刑事達に向かって言った。

「私の傷が治り次第、この国から出て行く!!…そして英国に帰る。

それまでに犯人を必ず捕まえろ!!保証もしろ!!」と、

【平井希昌】にも母国語で怒りを込めて言い放なった。

 

しかし…、捜査は半年を過ぎても犯人を捕まえられず…迷宮入りとなっていった。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーー

-英国人【キング】覚書-

 

1、賊ノ面体ハ聢リト分リ不申候へ共顔色白キ方ト覚申候、丈ケ大柄年令三十才位ト覚申候、

1、衣類ハ濃キ藍色ニテ、紋所有之候様、覚申候、

1、空色ノ堅縞袴オ着シ候様覚申候、但シ履物ハ無之候、

1、髪形ハ日本風ト覚申候、

※ 文書権正  【平井希昌】資料

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーー

 -御雇英国人【キング】教師殺傷事件-

※【アジア歴史資料センター収蔵データ一覧】より。詳細参考資料

 

****************

武士達の時代は既に終わっていた。

しかし…この先も武士達による恨みの事件は続いて行った。

 

~新潟から東京へ~

東京へ戻った【平井希昌】は、外務省で文書権正のお役目に取り組んでいた。

住まいは…相変わらずの官舎での独り暮らしだった。

妻は…明治元年の翌年に、長崎の地で病死した。27歳の若さだった。

【希昌】の幼い娘は、長崎の養母と実母がみてくれていた。

 

(しかし…この先、長崎に残した家族達をどうしたものか…)

【平井希昌】は、その家族設計ですら描けないでいた。

 

∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽

 

~現代~

平成28年3月5日(土)

啓蟄(けいちつ)

~知友と私~

 

桃の節句も終わり、玄関に飾られた小さな雛飾りも仕舞われた。

 

今日は、朝から久し振りに知友が我が家へ来ていた。

昨年の秋…【平井希昌】の菩提寺、港区南麻布の[光林寺]に歴史探索へ行って以来だった。

昼食後、母とよき子叔母さんが客間のテーブルにある食器を片付けに来ると、

知友が「ご馳走さまでした!!」と深々と頭をさげた。

入れ替わりに、妹のゆきがコーヒーと菓子を運んで来てくれた。

「おお~ありがとう~!」と、知友が手を差し出して、

ゆきに握手を求めると、ゆきが笑って手を振って立ち去って行った…。

知友と私は笑いながらコーヒーを味わった。

 

やがて、テーブルに広げた明治時代の外交官(文書権正)【平井希昌】の資料を再び手に取って見た。

「しかし、【平井希昌】は、この先も外国との突発的な事件によく立ち会う事に成るんだよなァ~」と知友が資料を見て呟いた。

「そうだね、【キング】教師の事件も終り、明治5年を迎えて、

さァ~いよいよ…日本待望の鉄道開通式典が9月12日に迫って来ていた」と私。

「しかし、その直前の明治5年6月4日、横浜沖ではペルー船籍の【マリヤ・ルーズ号】が漂っていた。

ここから事件が始まるんだよな…」と知友。

「明治政府にとっては、初めての国際的な大事件に巻き込まれてしまったのか…」と言いながら私も資料をめくった。

知友が呟いた。

「【マリヤ・ルーズ号】は航海中に嵐に遭遇して船体破損をした。

その修理のために横浜港に寄港したとある。だが…この船底には≪231≫名もの奴隷達が身を寄せていた…」と知友。

「う~ん、これは人権問題が絡んで来るから難しそうだなァ~、ところで、奴隷達は何処の国の人?」と私。

「この[維新への澪標]の本の中には…【中国移民】と書いてあるよ。

しかしこれから…他国との関連が出てくるから難しい事件になりそうだなっ」と言いながら、

【平井洋】の著書[維新への澪標]を私に見せた。

ーーーーーーーーーーーーーーー

~中国移民~

明治5年

横浜港長より神奈川県令へ

-報告書-

船名     【マリヤ・ルーズ号 】

出港地マカオ五月二十五日出帆   国籍     白露(秘魯・ペルー)

船長     【リカルド・ヘレロー】

乗組員   二十一人

屯数     三百五十屯

積荷     軽荷

船客    中国移民二百三十一人

引受人   無之

行先     秘魯(ペルー)カレオ

来着     七月九日

病客     無之

-入国理由-

日本国ヲ距ル凡三百二十五里、東経三百三十二分、北緯三十七度ニ当ル、大洋中ニテ船体損傷シ、ソノ修理ノ為ナリ。

一八七二年七月十日

【横浜港長 】

【シ・エス・エム・プルウイス】

 

∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽

知友が説明をした。

「翌日には【マリヤルーズ号】船長より、入港願書も神奈川県令宛に届いた様だが…」と言いながら、

知友が床の間の置時計をチラリと見て背伸びをした。

「外も暗く成ったし、そろそろ今日はここで終りにして、夕飯でも食べに行こうか…」と私を促した。

「ああそうだねっ、海岸通りに新しい居酒屋が出来たから、

そこへでも行って見ようか」と二人で立ち上がり玄関へ向かった。

 

玄関を出ると妹のゆきが、よき子叔母さんと壁に向かって写真を撮っていた。

「どーした?」と私が尋ねた。

「えっ…」とゆきが振り向いて、

「ここの壁に雨蛙がいるのよ」と、よき子叔母さんと同時に答えた。

「あっ本当だ!可愛いなァ~雨蛙か…10年以上見てないよ」と私。

知友も「寂しいぐらいに居なくなった…」と呟いた。

「だけど、雨蛙なのに色が茶色なのよっ」とゆき。

「あァ~それは明るい場所に移動すれば緑色に変わるんだよ」と説明している私の肩を知友がポンと叩いた。

「何…?」

「考えたら…今日は啓蟄(けいちつ)だよ!!虫が冬ごもりから這い出て来る日だ」

「おお~、ピッタリの日だ!」と四人で驚きながら、

壁をゆっくりと這い上がって行く春の来客の雨蛙を愛でた。

 

【雨蛙】

screenshotshare_20160314_220346 screenshotshare_20160314_220531 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

平井希昌(その25)   【前代未聞の葬列の大移動】 【★<勲章制度化>大給恒・平井希昌】  IN 《★萬國勲章略誌・平井希昌・纂譯》 by 長尾佐栄

平井希昌(その25)   【前代未聞の葬列の大移動】 【★<勲章制度化>大給恒・平井希昌】   IN   《★萬國勲章略誌・平井希昌・纂譯》                                                      by 長尾佐栄

 

~安政5年(1858年)長崎~

この頃【平井義十郎(希昌)】は未だ20歳の若い稽古通詞だった。

 

それよりも尚5年も前の1853年には、

長崎へ突如ロシア船が来航した。

同じ年に浦賀へは【ペリー】が率いる黒船4隻が来航した。

開国を迫る列強2ケ国の巨大ハリケーン!!

1853年…【平井義十郎(希昌)】末だ15歳の頃だった。

ーーーーーーーーーーーーーー

※何れは…、

【明治天皇】の直属の通訳に昇り詰めて行くことを。

※何れは…、

日本の勲章制度を確立させる事を★【萬國勲章略誌】

※何れは…、

諸外国との数々の難事件解決に奔走する事を。

【平井義十郎(希昌)】自身も、周囲もまだ思いもよらぬ時代だった。

 

**************

★【萬國勲章略誌】

明治28年6月21日 発行

【平井希昌】纂譯

**************

     

     

   

     

      

     

     

     

**************

~明治6年3月~

 

~★賞勲局  開局準備~

【細川潤次郎】

↑(中江兆民の土佐時代の師)

【大給恒】(幕末 陸軍総裁)

【生田精】

【横山由清】

【長森啓斐】

以上5名が準備に携わる。

ーーーーーーーーーーーーーーー

~明治9年★賞勲局発足~

 

賞勲局長官 【伊藤博文】(兼務)

副長官     【大給恒】

秘書官・書記官

【平井希昌】

↑(明治天皇の通訳兼務)

↑(中江兆民のフランス語の師)

秘書官   【北川泰明】

ーーーーーーーーーーーーーーー

~★明治11年3月~

 

賞勲局総裁    【三条實美】(兼務)

副総裁に変更  【大給恒】

秘書官・書記官

【平井希昌】

↑(明治天皇通訳兼務)

秘書官  【日下部東作(鳴鶴)】秘書官・書記官 【横田香苗】

 

ーーーーーーーーーーーーーーー

~★明治16年6月~

 

賞勲局総裁 【 柳原前光】       (白蓮の父)

副総裁     【大給恒】

秘書官・書記官

【 平井希昌】

↑(明治天皇通訳兼務)

秘書官・書記官 【横田香苗】

秘書官        【林 直康】

 

ーーーーーーーーーーーーーーー

~★明治24年9月~

 

賞勲局総裁 【 西園寺公望】

副総裁     【大給恒】

秘書官・書記官

【平井希昌】

↑(明治天皇通訳兼務)                        ↑(西園寺公望侯の仏語師)

書記官   【横田香苗】

書記官   【藤井善?】

 

∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽

明治21年12月27日には、

【平井希昌】へ、

賞勲局よりご褒美。

「多年精励、殊ニ新勲章御増設局、務多忙ヲ加へ、非常勉励ニ付、金百円下賜」

 

**************

~★明治28年11月~

平井希昌】

日本の勲章制度についてまとめ上げる。

★【萬國勲章略誌】

平井希昌・著書

子孫【平井靖人】氏所蔵

★【日本勲章記章誌】

平井希昌・著書

(所在不明)

**************

~明治より15年前~

 

【平井義十郎(希昌)】15歳の頃、

既に、近隣諸国は列強国による植民地化が進んでいた。

徳川幕府もその情報は掴んでいた。

1853年…日本へ黒船来航で

徳川幕府は驚異と狼狽で揺れに揺れた。

ペリー来航の翌年には、

「日米和親条約」や「日露和親条約」が締結された。

続いて安政3年には、

アメリカ総領事【ハリス】が下田へ通訳兼秘書の【ヒュースケン】と共に着任した。

その後、「日米修好通商条約」が締結された。

これ等により、「安政の仮条約」も締結せざるを得なかったのだ。

その余波は、長崎にも及んでいた。

 

開港に向けて、唐通詞(通訳)達の英語の強化が急がれていた。

ペリー来航から明治まで…後15年。

∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽

※「維新への澪標」

【平井洋】1997年~著書~

∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽

著者の【平井洋】氏は、【平井義十郎(希昌)】の孫に当たる。

当時、勤務先の*ニチメン実業の休みを利用して、

国会図書館へ赴き【平井義十郎(希昌)】関係の公文書や履歴書を調べ上げた。

また、【平井希昌】の残した日記や書簡、縁者の手紙を辿り、

平井洋氏の次男【平井靖人】氏の協力を得て、

共に長崎を度々訪ずれ、その足跡を追った。

ーーーーーーーーーーーーーーー

上記著書から考察

 

~明治夜明け前の記録より~

安政5年「安政の仮条約」が結ばれた。

これにより徳川幕府は欧米各国の要求を受けて開港開市。<神奈川>

<新潟>

<大阪>

<兵庫>

<長崎>の5港を設けた。

また、諸外国との交渉が中国語・オランダ語以外に英語が急務と成っていた。

徳川幕府唯一の貿易港〈長崎〉

その出島の唐通詞(通訳)、

<大通詞>【鄭(てい)敏齋】は、

「…今後、各国との貿易を鑑みて、唐通詞達の英語の交渉力が必至だ」と、

長崎奉行【岡部駿河守】に請うた。

長崎奉行【岡部駿河守】は、その旨を徳川幕府へ急ぎ要請した。

 

これに応えて、徳川幕府からは、唐通詞の中から優秀な5名を選抜せよ命が下った。

ーーーーーーーーーーーーーーーーー

~安政5年12月~

 

「右ノ者共五名」

~成績優秀により人選されん~

*游龍彦三郎(うりゅう)

*彭城太三郎(さかき 又は、ほうき)

*太田源三郎

*何 礼之助     (何 (が)礼之)

*平井義十郎  (平井希昌)

ーーーーーーーーーーーーーーーーー

…折しも長崎港には、

「アメリカ船」が碇泊中であった。

この機を逃すまいと、幕府の許可のもと、

<大通詞>【鄭(てい)敏齊】は、選抜された五名を監督引率して、

アメリカ船に乗り込んだ。

そこには<アメリカ人>の【マクゴーワン】氏が待っていた。

彼は快く五名の唐通詞を迎え入れて英語を教えた。

それは短期間であったが、

〈※成績抜群と評価された〉

やがてその事が…英語による交渉に力を加えたのである。

(※しかし何故、<英語の成績が抜群>と…評価されたのかと言うと、

唐通詞達は既に幼少の頃より、何れに備えて英語の基本を学んでいたのである)

∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

※長崎の<大通詞>【鄭敏齊】は、

英語を兼ねた「訳家学校」を開き通詞達の育成に心掛けていた。

∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

 

~長崎の観光名所「崇福寺」~

 

この寺の第一峯門前には、【鄭敏齊先生 遺徳碑】と書かれた〈顕彰碑〉がある。

唐通詞の子弟達の尊敬と感謝の石碑だ。

篆額の八文字は、【平井義十郎(希昌)】が顕したもので、

碑文の方の内容には

「…鄭敏齋先生、幕府に請ふてアメリカ人『マクゴーワン』氏に依頼し唐通詞子弟をして英語を学ばしむ……云々」と長文が刻まれている。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーー

~現代~

平成27年10月16日

~知友と私~

 

午前中に、南麻布の光林寺の【平井希昌】の墓所を訪ねた帰りに…。

私達は、麻布にあるレストランで昼食を食べながら、

窓越しに見える外人達の行き交う姿や、

外苑西通りを高級車が走り抜けて行く様子を眺めていた。

ここ麻布には多くの大使館が点在していた。

「さっき…フランス大使館の前を車で通過した時、

思わず【平井希昌】と【大給恒】のつながりを思い出したんだ。フランスや各国の★勲章を参考にして、19年間に渡り日本独自の★勲章を制度化するため、尽力して来た二人だからね。

丁度、この近くに香林院があって、その【大給恒】の菩提寺なんだよ」

と知友が食後のコーヒーを飲みながら言った。

 

「そうか…【大給恒】(おぎゅうゆずる)は、確か旧松平藩主だったよね」

と答えながら、私はスマートフォンで〈香林院〉の所在地を検索した。

 

〈香林院〉

この外苑西通りの対面に地下鉄広尾駅がある。

その脇の商店街通りを暫く奥へ進むと表面突き当たりに寺の門があった。

 

「ふ~ん、この辺りは渋谷区になるのか」と、

私は呟きながら知友とその寺の門の中へ入った。

 

右沿いに〈香林院〉が在り、

同じ敷地の奥には〈祥雲寺〉と言う立派な臨済宗の寺が在った。

左手に広がる墓所は…巨大な墓石群の林立だった。

 

「びっくりしたァ!凄く大きな墓石群だなァ~、

それにこの横の巨大なお墓は【黒田長政】とあるよ」と私は知友に声を掛けた。

 

「どれ?ああ本当だ…軍師【黒田官兵衛】の長男で【徳川家康】の信望が厚かった黒田家の墓がここに在ったのか!びっくりだなァ~」

 

「説明によると、ここ〈祥雲寺〉は諸大名の菩提寺で巨大な墓石群は渋谷区指定史跡とあるよ」と、

説明をする私を促して、知友が奥の方へと向かった。

奥には旧松平藩主【大給恒】(おぎゅうゆずる)の巨大な墓所が在った。

 

「明治政府の要請で19年間に渡り★勲章制度確立に尽力した大給恒と平井希昌は、各国の様々なデザインを調べ上げて、日本独自の勲章を考案したんだ。

平井希昌は明治28年に★【萬國勲章略誌】をまとめ上げた。

その翌年、

…アメリカ公使の待命中に狸穴(まみあな)の自宅で倒れてしまったんだ…。

【大給恒】が慌てて希昌邸へやって来て、広尾に在る日本赤十字病院のトップの医師達を呼び寄せたんだ。

しかし、重体であったために大給恒は、

平井希昌に付き添い日本赤十字病院へ向かったそうだ…」

「そうか…19年の間に身内の様に親しく成っていたんだねっ。それで思い出したんだけど、幕末に【大給恒】は陸軍総裁だったんだ。

その下の陸軍奉行が【松平乗命】なんだ、共に大給家で親戚に当たるんだね」

「…それで?」と、知友が私を見た。

「さっき行った〈光林寺〉の墓所【林錦次郎】の父親【林栄之助】は、陸軍奉行【大給松平乗命】の家臣なんだよっ」

「ヘぇ~!世の中って狭いなァ…」

と、二人で出口に向かいながら〈香林院〉を左手に見て…知友が呟いた。

「そう言えば、香林院のお住職様は<NHKの大河ドラマ>の時代監修をされている方だそうだ、日本橋で会社を経営している【平井靖人】社長から以前聞いたんだけど、お住職は美しいお経を詠まれる方だそうだよ…」

「そうか…」

 

私達は再び西外苑通りのパーキングへと向かった。

夕食は東京駅前の新丸ビルの中ですると…二人で決めていた。

 

**************

~明治29年2月15日~

 

故人【平井希昌】葬儀の日

日本の★勲章造りの七宝細工師家達が故人を偲び献花をして列席した。

 

【平田彦四郎】 七宝細工師

造花台付き1対持夫白丁2名

【相原幸吉】勲章細工師

造花台付き1対持夫白丁2名

【大木宗保】七宝細工師

造花台付き1対持夫白丁2名

 

   

 

平井希昌(その24)【前代未聞の葬列の大移動】【日米修好通商条約済8ヵ国へ希昌】 IN 《光林寺・林錦次郎、源慶院・林栄之助》 by 長尾佐栄

平井希昌 (その24)  【前代未聞の葬列の大移動】  【日米修好通商条約済8ヵ国へ希昌】   IN   《光林寺・林錦次郎、源慶院・林栄之助》                                               by 長尾佐栄

平成27年10月16日(金)

~知友と私~

 

知友と私は休暇を取って、

久し振りに東京の南麻布の光林寺へと車で向かった。

生憎の小雨だったが、首都高速道路の天現寺出口から降りて…直ぐ目の前の光林寺の駐車場へと着いた。

 

門をくぐると、左手に金木犀の巨木があり、広い庭周辺に甘い香りを漂わせていた。

大きな本堂に向かって手を合わせてから、

本堂の真裏にある【平井 義十郎(希昌)】の墓所の立派な門の中へ入った。

石畳を歩くと左側に木立に囲まれた2畳以上の石碑があり…そこへは長文が刻まれてあった。

_______________

篆額は、

【 副島 種臣】(そえじま たねおみ)

撰文は、

【何  礼之】(が  のりゆき)

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

~明治29年2月当日~

 

故【平井 希昌】の法要を愛宕の「青松寺」で済ませると、

総括責任者であった【西園寺 公望】侯は、

石碑建立のために広い墓所のある南麻布の「光林寺」へと、

葬列の大移動をしたいと列席者に願い出たのだ…。

 

日暮れが近付く。

~〈この大移動の発端は〉~

当日に成って、石碑建立を願い出た

【副島 種臣】と【何  礼之】の熱い思いから始まったのである。

ーーーーーーーーーーーーーーー

~「光林寺」へ~

当日の移動→馬車・人力車・徒歩。

7ヵ国より賜る勲章7つ→持夫の白丁7名が捧げ持つ。

 

~〈会葬者名簿〉の一部分より~

【西園寺 公望】

【大隈 重信】【原 敬】

【山県 有朋】【陸奥 宗光】

【副島 種臣】【何  礼之】

【土方 久光】【徳川 茂承】

【大給  恒】【榎本 武揚】

【伊東 巳代治】【中川 小十郎】

【品川 弥二郎】【福地 源一郎】

【川村 純義】【山尾 庸三】

明治天皇の和歌師→【高崎 正風】

伊藤博文の婿→代理【西 源四郎】

(【伊藤 博文】は現職の内閣総理大臣のため欠席)

伊藤 博文→娘たち

岩倉 具視→息子たち

柳原 白蓮の兄→【柳原 義光】

巌谷 一六の息子→【巌谷 小波】

【満鉄総裁】

【日本銀行総裁】

【第五代日本銀行総裁】

【日本興業銀行総裁】

【日本赤十字創設者】

【日本赤十字社長】

【東京帝国大学初代総長】

【日本医科大創設者】

【国学院大学長】

【久保 久行】横浜駅駅長

等々の著名な葬列者が未々二百人近く続く…政界、財界、新聞、印刷、文芸界と続き…、

その後を、長崎の教え子たちや一般人の長い二列編成の葬列者が続いた。

日没前の肌寒い2月、愛宕から南麻布へと…急がれた。

 

~当日の〈会葬者名簿〉より~

DSC_0277  DSC_0278  DSC_0272

明治天皇の和歌の師

男爵 【 高崎正風】

ーーーーーーーーーーーーーーーーー

~現代~

 

知友と私は、

その故【平井 義十郎(希昌)】の墓前に手を合わせた。

この後…墓所の門を出ると、

直ぐ右隣の墓所に向かった。

故【平井 希昌】の為に光林寺の広い20畳の敷地を当日…譲り渡して、

自らは住職の了解のもとに、隣の8畳程の先祖墓所を求めた人物が眠っている。

~【林 錦次郎】の墓~

ブロック塀に囲まれた、やはり燈籠の構えのある明治の実業家の墓で、

その独特な書体で彫られた墓石裏面には、

明治を代表する書家【高林 五峰】(寛)の名前が刻まれてあった。

人名事典に記されているこの【林錦次郎】と言う人物の父親は【林栄之助】と言う。

~【林 栄之助】~

【林 栄之助】は、

岩村藩【松平能登守乗命】家臣で江戸下屋敷留守居役であり、漢学者でもあった。

江戸時代が終わると【林 栄之助】は東京士族となり、

銀座と京橋に「守中堂」と称した印刷会社を興した。

主に<漢和辞典>等々辞書の制作にあたった。

この当時…漢学者の印刷屋は珍しく官僚や多くの著名人達が利用した。

なかでも日本三大書家と称された

<明治の三筆>の内の二人、

【巌谷 一六】(修)と【日下部 鳴鶴】(東作)とは、

辞書関係で交流があった。

また【林 栄之助】は、明治政府からの依頼により、

「北海道全体地図」等々地図関係を制作カラー印刷の最新技術で仕上げている。

明治11年、【林 栄之助】は東京・銀座から千葉県館山へと移住している。

妻の【ち賀】は旧姓を【熊切】といい、

明治に静岡県藤枝から館山に移封した田中藩(移封後は長尾藩)の藩士の娘であった。

館山は房総半島南端に在し、

広大な大地の背には山々を配し、表となる松林の先には内房の海が広がり、

通称「鏡が浦」と呼ばれる湾の波が静かに砂を洗う。

晴れ渡った日は富士山を望み、日暮れには真っ赤な夕陽が沈む。

【林栄之助】は、この地で、明治24年に没した…。

墓は千葉県館山市安布里の【源慶院】に眠る。

大きな五輪塔は関東大震災時に崩壊してしまった。

源慶院

源慶院

DSC_0506

林栄之助墓所

【林栄之助】墓所

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

※上記は、安房地域の歴史を研究している

【 愛沢伸雄先生】 (千葉大学非常勤講師・館山市在住)調査による。

恐らく、【林 栄之助】は安房地域の殖産興業発展のため、

館山へ呼び寄せられたのではないかと推察される。

また、【京極家藩主】とも交流が合ったと親族から伝え聞いている。

 

 

DSC_0254  DSC_0255

DSC_0268  DSC_0265  DSC_0264  DSC_0263

DSC_0260 右側内頁には【巌谷一六】(修)とある

『鼇頭篆隷 (ごうとうてんれい) 帝国会玉篇』    印刷発行人【林 栄之助】

 

DSC_0269  DSC_0271  DSC_0270

『高等小学校讀本字引  上下巻解釋』    【林栄之助】作成者  編集人 【林栄之助】

 

imgd93a7863feeefff584fe4

『篆書参考  実用新選字典』  【林栄之助】編纂

表紙題字  【日下部鳴鶴先生】 (明治 三大書家)

 

0D027290000000000

『北海道関係地図・図類目録』(分図・千島諸島)(色刷 53×73㎝1枚)

著者標目 【 林栄之助】

 

DSC_0276 Screenshot_2015-11-24-23-44-33 DSC_0251 DSC_0250

市区改正・最近実測 【江口鶴洲 】 編輯(色刷1枚  サイズ半畳程)

『東京市全図』 印刷編集者【林 栄之助】

_______________

【厳谷一六】(修)は、故【平井希昌】の葬儀に代理を列席させている。

DSC_0274

【巌谷一六】(修)

ーーーーーーーーーーーーーーーーー

 ~現代~

    知友と私

「雨が止んでくれて助かったよ…」と私は知友に呟いた。

 

ここ光林寺のそれぞれの墓所には、木々が植えられている。

小山の上に京極家の墓所がある、

美しい名門の寺であった…。

知友が、その木立の先を指差して、

「確かこの奥に【ヒュースケン】の墓がある筈だな…」

と振り返って私を見た。

 

「そうだね、以前…光林寺をGoogleで検索していたら、

タイトルが≪幕末散歩≫というなかに、

【日米修好通商条約関連と幕末史跡めぐり】という歴史探訪があり、

そこに光林寺には【ハリス】の秘書兼通訳【ヘンリー・ヒュースケン】の墓がある、

と書かれてあったからね」と私。

 

「うん…しかし、光林寺に【ヒュースケン】の墓があったとはなァ…、

アメリカから【ペリー】が黒船で浦賀へ来航して、それと同じ年にロシアも長崎に来航しているんだよな。

それで両国とも開国を迫ったんだ。

これは≪明治より15年も前の事だ≫

徳川幕府は列強2ヶ国の来航に驚き慌てふためいた!

この時代辺りから幕末の始まりといわれているようだ…」

と知友が話しながら道を右に曲がり、

また話し続けた。

「…徳川幕府は、アメリカとロシアに向って言ったんだ。

『開国を直ぐにと言われても、即答は出来ないから、来年もう一度来てれ』と、

兎に角…アメリカとロシアを押し返したんだ。

それからが大変だ!徳川幕府は混乱情態になって、

天皇や各藩主に相談をしちゃったんだ。どうしようか…と、これが【安政の改革】だ。

そして、約束通り1年後に、アメリカもロシアも来航した。

この時、徳川幕府は天皇や藩主に相談をせずに条約を結んだ。

【日米和親条約】と【日露和親条約】だ。

段々…こんがらがって来る…」と知友が笑った。

 

私は頷きながら次を引き取った。

「…その後【日米修好通商条約】締結のために【ハリス】が下田へ着任して来たよね。

日本は外交語にオランダ語を使っていたから、

【ハリス】はオランダ語と英語が出来る【ヘンリー・ヒュースケン】を秘書兼通訳に抜擢し、日本へ連れて来ていた」

 

「ああ…【ヒュースケン】は日本語も習得したというから凄いよな。

【日米修好通商条約】の締結に【ヒュースケン】は大変貢献したそうだ。

徳川幕府は…、【日米和親条約】【日露和親条約】【日米修好通商条約】を、

【天皇】に相談もせず、勝手に結んだから地方からの反発が巻き起こった。

それが【尊皇攘夷派】を生み出して、天地動乱の幕が切って落とされたんだよな…」と知友。

 

「おっ…ここのお墓かな?」…と私は知友の背中をポンと叩いた。

「うん?…そうだ【ヘンリー・ヒュースケン】のお墓だ」

寂しげな墓がぽっんと在った。

「オランダの若者で苦学して【ハリス】に抜擢された…大出世だ。

しかし、日本へ着任して数年後には、

東京で攘夷派に襲われて死んでしまったんだ…まだ28歳という若さでだ」と知友。

 

「うん、気の毒だな、

【攘夷】の【攘】とは…払い除けると言う意味だし、

【夷】とは…【夷人】すなわち外国人だからね、

外人を忌み嫌った時代だ…」と私と知友は、異国の地に眠る小さなお墓の前で手を合わせた。

 

それから…その場を離れて、【平井 希昌】の墓所の方へと戻りながら、

途中で〓海援隊〓【菅野 覚兵衛】夫婦の墓の前で来て手を合わせた。やはり門構えであった。

【坂本 龍馬】の妻「お竜」の妹「君江」が【菅野 覚兵衛】に嫁いでいた。

【坂本 龍馬】と寺田屋遭難の時に一緒だったのが【三吉 慎蔵】だが、

その後【坂本 龍馬】から受け取った手紙には、

『…万が一の時は、妻の「お竜」を頼む』と書いてあった。

やがて【坂本 龍馬】が暗殺された後、

【三吉 慎蔵】はその約束通りに「お竜」と妹の「君江」を預かった。

その後の事は、Google検索の

≪幕末散歩≫【日米修好通商条約関連と幕末史跡めぐり】を参考にした。

【菅野 覚兵衛】君江夫婦はやがて東京に移住した。

【坂本 龍馬】が信頼していた朋友の【三吉 慎蔵】も東京へ移り住んだ。

【三吉 慎蔵】は…何かにつけて【菅野 覚兵衛】夫婦を一生大切にしたと言う事が詳しく調べられてあった。

 

やがて、私たちは【平井 希昌】墓所の横を通り過ぎて表の庭へと向かった。

門の手前には、先程の金木犀の巨木がやはり黄金色の小花をぎっしりと咲かせて香っていた。

門をくぐり出て、駐車場へ向かいながら私が知友に話し掛けた。

「【日米修好通商条約】の締結に【ヒュースケン】がかなり活躍した様子だけど

〈維新への澪標〉の本によると【平井 義十郎(希昌)】も、

この【日米修好通商条約】に関わっていたんだよね」と言いながら私は車のロックを解除した。

 

「ああ…しかし、その事は案外知られていないんだよ、

【平井 希昌】の孫の【平井  洋】氏が、日記や公文書を丹念に調べ上げてあるんだけどね、

徳川幕府にしたって通訳がいなければどーにもならないしさァ…」と言いながら知友が助手席に座り込んだ。

 

私は運転席から空を見上げた…。曇天の雲の間から薄日が射し始めている。

「優秀な通訳達は徳川幕府から呼び寄せられたと思うよ……」と呟きながら、

車は光林寺を出て直ぐ脇のフランス大使館の前を通り過ぎた。

「あっ!そうだ、広尾で昼飯を食ったら、香林院へ行ってみようか…」と知友が私の方を見た。

 

∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

 

『維新への澪標』  ~通詞【平井希昌】の生涯~

著者  【平井洋】   1997年11月1日    発行

(【平井義十郎(希昌)】の孫として日記・記録より)

DSC_0279 DSC_0281 DSC_0280

ーーーーーーーーーーーーーーーーー

~安政5年~

徳川幕府から呼び出しを受け賜る。

「通商条約文」

ロシア・オランダの2ヶ国翻訳を長崎唐通詞の5名で行う。

*頴川 藤左衛門

*呉 碩三郎

*鄭 右十郎

*中山 玄三

*【平井 義十郎(希昌)】(年少20歳)

 

上記翻訳の完了後、幕府よりご褒美を賜る。

※安政五年十月   銀二枚づつ

「其方共儀、俄羅斯(オロス)、和蘭(オランダ)両国条約書漢訳之儀骨折候ニ付、為褒美為取之候」   平井義十郎外

 

※同月   銀二枚づつ

「其方儀、御内密書籍認方格別出精イタシ候ニ付、為褒美為取之候」

平井義十郎外

 

※同月    銀三枚づつ 外ニ筆墨料百疋

「右ノ者、御内密書籍謄写等イタシ候手当トシテ為取之候」   平井義十郎外

 

以上条約文の確認翻訳のご褒美五名。

ーーーーーーーーーーーーーーーーー

~文久3年11月~

【平井 義十郎(希昌)】

【日米修好通商条約】済みの8ヶ国へ徳川幕府より派遣命令の書翰が届く。

「今般、ご条約【日米修好通商条約】が済み。各国へ差し遣えそうろう趣旨の御内意に付き、

御用の義が有りのそうろう。

この度、差し廻す御船に乗り組みて幕府へ出向くよう申し付けそうろう。

長崎から早々急ぎ用意して、江戸へ向う様致し候」

(原文)

「今般 御条約済各国ニ御使被差遣候趣御内意ニ付御用ノ義有之候間此ノ度差廻候御船ニ乗組出府申付候条早々用意可致候」

 

【平井 義十郎(希昌)】は、江戸幕府からの書翰を拝読した。

「…わざわざ御船を長崎へ差し向けて迄の御用事とは…、それも至急【江戸】へとは」

【平井 義十郎(希昌)】は、書生の米吉と幸八の両名を従えて、江戸へと急いだ…。

(米吉・幸八の名は希昌の日記より)

江戸表に参上すると、【日米修好通商条約】の済んだ8ヶ国への派遣を告げられたのだ。

※恐らく数名の通訳が派遣に同行したと思われる。

ーーーーーーーーーーーーーーー

平井希昌(その23)【前代未聞の葬列の大移動】【何礼之・平井希昌 外務省へ】 IN 《出島動物島・砂糖島》 by 長尾佐栄

平井希昌(その23)【前代未聞の葬列の大移動】【何礼之・平井希昌  外務省へ】 IN 《出島動物島・砂糖島》     

                                                                                                                                                                                    by長尾佐栄

平成27年10月3日(土曜日)

~知友と私~

「門の入口で金木犀が凄く香っていたよ…」と、知友が言いながら玄関を開けた。

…庭の植木が様々な季節を知らせてくれる。

裏庭の背の高い柿ノ木は今年も実がたわわになっている。

ーーーーーーーーーーーーー

ー明治4年5月ー

「長崎へは…もう戻れなくなった」と、

【平井希昌】は手紙にしたためた。

あれ程までに固く決心をして、

明治4年1月11日に【大隈重信】侯へ退官願の書翰を送ったのだが…致し方がなかったのだ。

明治4年の「外務省」は発足早々で、まだまだ少数の精鋭部隊だった。

様々な専門分野に長けている人材を政府は欲していた。

明治3年には工部省を設置して、

日本の産業近代化のために、弾丸さながらにスタートを始めていたのだ。

<鉄道、電信、鉱山、製鉄、造船、灯台等々>

特に「鉄道」は外国人の専門技師を大勢雇い入れた。

また、それに平行して専門分野の学校設立も急がれていた…。

外交面では、世界と平等に交渉するためのスペシャリストとして、

外交に長けている「長崎唐通事」(通訳)たちが重要視されていた。

その「唐通事」の中でも↓

―――――――――――――

【平井希昌】(ひらい  きしょう)33歳

【何礼之】(が  のりゆき)32歳

【鄭永寧】(てい  えいねい)43歳

【柳谷謙太郎】(やなぎや  けんたろう)25歳

等々が明治政府にとって必要な人物の一角を担っていたのだ。

DSC_0239

上記の3名は、 故人【平井希昌】の葬儀に列席した。

上記の3名は、
故人【平井希昌】の葬儀に列席した。

―――――――――――――

【何礼之】(肖像写真)

【何礼之】(肖像写真)

※【何礼之】(が のりゆき)は、

幕末時、長崎奉行所<支配定役格>となり、

「幕府」の機密文書も取り扱った事から「幕臣」に昇格していた。

その後を→【平井義十郎(希昌)】が引き継ぎ、

同様に<支配定役格>となり「幕臣」となっていた。

―――――――――――――

※【何 礼之】(が のりゆき)は、

幕末時、徳川幕府に呼ばれて、江戸で「*開成所」御用掛として洋学を教えていた。

また【勝海舟】の下で、【何礼之】は【ジョン万次郎】と共にお抱え通訳も兼ねていた。

この時期に【勝海舟】に「万国公法」(世界の法律)のある事を伝えた。

ー明治元年ー

明治新政府の下で、徳川幕府の洋学「*開成所」は官立の「*開成学校」となり、

【何礼之】は引き続き訳官(教師)を司った。

(後の*東京大学である)

ー明治4年秋ー

【何礼之】は一等書記官として欧米へ【岩倉具視】使節団に随行した。

ーこの時期ー

【平井希昌】は、

ー明治3年ー

明治政府の工部省「鉄道」掛けに任命されていたが、

ー明治4年1月ー

長崎に戻り退官願いの書翰を送っている

ー明治4年4月19日ー

【何礼之】より遅れて「外務省」の文書権正に転属となった。

―――――――――――――――――――――――――――――

【何礼之の墓】
青山霊園大正12年永眠

平井氏撮影

―――――――――――――――――――――――――――――

ー明治4年5月ー

【平井希昌】は、

長崎の養母と実母それに亡妻の幼子へと手紙をしたためていた。

そして、もう長崎へは戻れない事を…詫びた。

中央政府の現状を知れば、致し方がなかったのだ…。

【希昌】は、長崎に在る自身の必需品を書生と小者たちにまとめさせて、

至急、東京へ送り届ける様に養母へ追記をした。

ーーーーーーーーーーーーー

現代

~知友と私~

「…以前、子孫の【平井社長】から【何礼之】の写真の写しを頂いていた時に、

長崎「唐通事」の役割についての説明書もコピーさせて貰ったんだよ」

と知友が私にその用紙を手渡した。↓

*******************

<「唐通」だった子孫の13代目【平井氏】の説明文>

ー長崎ー

「唐通事(とおつうじ)とは」

「唐通事」は長崎奉行のもとにあって中国語(明・清)の通訳・翻訳のほか、来航唐船の管理、

貿易の業務、在留唐人の取り締まり等にあたる地役人である。

その創設は江戸幕府が長崎を直轄地とした直後の慶長9年(1604年)に

長崎在住の唐人の馮六(しょうろく)という人物を登用した事に始まるとされている。

その後、暫くは2~3人の小規模なものであったが、

寛永期に入っていわゆる鎖国政策が進むと、

かえって唐船貿易の重要性が増し、唐通事の定員は徐々に増員され、

大通事4、5人、小通事2人と2種にわかれ、これを合わせて本通事と称した。

初期の人員には移動があり、寛文12年(1672)に大通事4人、小通事人5人となり、

これが定数となって幕末に至った。これを唐通事9家といった。

また、この間、承応2年(1653)に本通事の下に稽古通事が置かれていたが、

これには定数がなく、本通事の子弟など後継者の養成と業務の補助的役割を果たした。

以上の三役の他に、内通事と呼ばれる私的な通訳が存在した。

さらに、大小通事・稽古通事の三役は分化して様々な名称の役が設けられていった。

例えば、小通事の下に小通事助・小通事並・小通事末席等、

大通事の下に大通事助・大通事過人などが置かれ、

大通事の上には唐通事頭取・唐通事諸立会・御用通事・風説定役・唐通事目付、

その他が短期間設置された。

一般に地役人と言われるものは、その土地限りに任命されて、子孫は世襲の性格を持つが、

唐通事もその例外ではなく、その多くは明末・清初渡来の唐人を祖とする世襲の家系であった。

その家の男子は子供の頃から中国語の会話を学び、

のち稽古通事見習・稽古通事になって練習を積み、次第に通事に業務の補助に当たるようになる。

こうした家系は「訳司統譜」によると「70家」と云われ、

これらの人々が前述した大小通事の9席とプラス2、3の本通事枠を目指したのである。

*******************

~知友と私~

「なるほどね…随分と組織化されていたんだね。

言ってみれば『唐通事』という外交のプロ集団が長崎出島の中で活躍していたんだな」と私。

「うん!そうなんだ、それで…<Google>で長崎「唐通事」が出島では、

どれくらいの人数が居たのか調べて見たんだよ、

一番初めの<wikipedia>には、(1824年)江戸幕府の貿易の拡大にともない、

「唐通事」は82名に達していた…とあるんだ。

この頃になると唐僧を招いたり唐人の監視・統制などや税関の役割も生じていた様だよ」と知友。

「そうか…82人もの『唐通事』が居たのか、

その出島の中で…異人たちと唐通事たちが日本商人をまじえて、

煙草の煙りをけぶらせながら商魂たくましく大声で交渉に没頭していた。

また、別の場所では目配せをして…忍び足で物陰でひそひそと交渉する者たちが…うごめいていた。

中国語、蘭語、やがては英語に仏語が出島の中を行き交う…

何だか上空からそれらを見て取れる様だなァ」と私。

「あぁ…そこでの貿易の物品について調べて見たんだ。

まず…日本からは銀・金・銅・陶磁器等が輸出されていた様だ。

輸入品は砂糖を代表して、繊維類・香料・薬・皮革類・コーヒー・カステラ・ワイン・タバコ・

西洋野菜・果物・ギヤマン・書籍・学術用具・地球儀等々だ。

幕末の頃はこれらの交渉が成立すると、

最終的に決済を下すのが長崎奉行所のナンバーツーで、

「唐通事」トップの【何礼之】や【平井義十郎(希昌)】だったんだ」と知友。

「なるほど…ところで、自分も<Google>でちょっと調べて分かった事があったんだよ」と私。

「何だろう?」…知友が興味津々だ。

ー【出島動物島】【砂糖島】ー

「うん!【長崎Webマガジン】に掲載されていたんだけど、ビックリしたよ!

…長崎出島は別名「砂糖島」と呼ばれていた様だ、当時出島の中は砂糖で溢れ反っていたそうだ。

主に砂糖はジャワ島の砂糖農園で作られたものだと説明があった。

…高価な贈答品だった様だ。

また、もう一つ驚かされたのが、

出島は「出島動物島」と称されていたという事だ。

【奇獣】が続々と渡来。<象・ラクダ・虎・オラウータン等々>

【珍鳥】は<ダチョウ・七面鳥・オウム等々>で

それ等、珍鳥は放し飼いされていたと説明されている…」と私。

ーシュガーロード【砂糖街道】ー

「へぇ~ビックリだなァ~放し飼いか、ワンダーランドだな!ハウステンボスみたいだ…」

と言いながら知友が続けた。

「…それと、以前【平井社長】に聞いたんだが、

それらの輸入品は出島から「長崎街道」を通って、

最終地点の<小倉>へ届き海路で江戸へ、または下関海峡を渡り

→陸路で山口から本州へと届けられたそうだよ。

別名【シュガー街道】と言うと【平井社長】から教えて貰ったんだ。

だから…そんな街道筋では砂糖によるお菓子文化が栄えた中でも、

「江崎グリコ」や「森永製菓」、そして【シュガー街道】の最終地点の<小倉>では、

金平糖が有ると言っていたよ」と知友。

ー【情報街道】ー

「そうかァ…だとしたら『長崎街道』は【情報街道】とも言えるのじゃァないのかな、

…肥前長崎の隣、肥前佐賀藩は【副島種臣】や【大隈重信】などの佐賀7賢士を生み出した。

街道終着の<小倉>から→馬関海峡を渡り→山口へ【長州藩】へと長崎出島からの最新情報が渡って来た。

…やがてそれは花木を育てて明治へのゴールへと続いて行く。

…だから、この『長崎街道』は【情報街道】でもあったと思うよ…」と私は知友を見た。

平井希昌(その22)【前代未聞の葬列の大移動】≪【大隈重信】候へ退官願のため上京≫ IN 【副島種臣】連席          by 長尾佐栄

平井希昌(その22)【前代未聞の葬列の大移動】≪【大隈重信】候へ退官願のため上京≫ IN【副島種臣】連席 

                                                             by長尾佐栄

平成27年8月 お盆休み(Ⅱ)

   ~知友と私~

襲雨…

知友と二人で昼食を食べていると、急に店の軒先に激しく雨の降る音がした。

たった今、カンカン照りの中をサンダルを突っ掛けてやって来たばかりだった。

「驚いたなァ…」と、知友が箸を止めた。

「にわか雨だから直ぐにやむよ~」と馴染みのおばさんがカウンター越しに声を掛けてくれた。

本当に…食事を終える頃には雨は止んでいた。

庭の植木にとっては喜雨だ。

知友と私は家へ戻り直ぐに客間の冷房を着けた。

______________

明治4年正月

やがては、

【明治天皇】の国賓の専属通訳に成る【平井希昌】だが、

明治4年の32歳の頃は、

官を辞して、地元長崎に戻りたい…その一心だった。

______________

明治4年1月11日付けで

【平井希昌】は地元長崎から【大隈重信】侯に退官願いの書翰を送った。

同年代の【大隈重信】侯からは返書が無いまま8日が経っていた。

しかし…待っているのが辛く成ってしまったのか、

明治4年1月19日付けで、再び【大隈重信】侯へと2通目の退官願の書翰を送った。

同日夕刻…、それでも落ち着かなかったのか、

またまた<追啓>として、今後の長崎での仕事を記して、3通目の書翰を送ったのだ。

長崎・出島・異人館、崎陽煌めく坂の街。

長崎を離れたくない一心だった。

――――――――――――――

【大隈重信関係文書】 9    はと ー まつ 早稲田大学大学史資料センター

「みすず書房」より

――――――――――――――

知友と私~

「可哀想に…だけど…我々〈素人歴史探偵団〉に取って見れば、

暗中模索だった当時の様子が書翰の中から読み解く事が出来て助かったよ。

…ところで頼んでおいた2通目と3通目の書翰の解読も出来ましたかな」と知友が尋ねた。

「あァ…出来ているよ。ただし2通目の手紙は、1通目の内容と似てるんだよっ。

昨年<大阪~神戸>区間の鉄道関係の職務の引き継ぎを終えて、

明治3年12月27日、【平井希昌】は長崎に戻って来ていた。

平井家の養母と森家の実母とは、ともに年を取っていたので長崎を離れることを拒んだ。

『説得に、説得を重ねたが…自分も疲れ果ててしまい…胸が痛くなり、寝込んだまま…起き上がれません』と、

1通目で訴えていたのだが、2通目もほぼ同じ内容だった…」と私。

「う~ん同じか…。確かに明治3年には【大隈重信】侯や【伊藤博文】侯から、

東京へ上京する様に任命が下されていたからなァ…」と知友が目をしばたたかせた。

∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

【大隈重信関係文書】より

【平井希昌】の書翰は、

筆字が流麗過ぎて解読不能。

※早稲田大学大学史資料センターでは、

その一文字一文字を丹念に拾い上げて漢文に翻刻されてある。

【大隈重信関係文書】2通目の書翰   No.1085ー10 (明治4年1月19日)

1通目と書翰内容似ている為。

「翻刻原文掲載」(訳さず)

謹啓

先便粗申上置候通、私儀当地公務相弁し早々帰京之積に候処、両人之老母近来衰容甚可憐懸念捨かたき体、

私儀将来陋愚にして老母の遠海跋渉難出来候を強いても乗船同行致候様之訓論も行届不申、

且(かつ)兄弟妻子之類代養之者無之候とも不差構押而(しかして)振捨上京仕候儀も得不忍、

至愚之故とは乍申此節実に進退相悩み罷在候。活眼を以御覧候時は因循頑固之説と御視成しも御座候半なれとも、

子欲養而親不在と申は千古の同なげくに有之、今又同轍をも踏可申歟(か)と甚憂慮仕候。

仰願わくは今暫於此地相当之御用御召遣被下、

傍ら膝下に侍養して聊(いささ)か老親之残喘を慰め候儀相叶候は至大之恩沢と奉存候。

唯赤鑑を祈る而(じ)己に御座候。

恐惶敬白

正月19日    平井希昌

ーーーーーーーーーーーーーー

明治4年1月19日

追啓

万一長崎県での務めの命が下りしか、或いは一官半職を任命そうろう時は、

先の洋学校、その他の学校事務を改正しまして、

子弟の外へ馳せる事を止めさせて、当地での実学を勧め示します。

或いは、在留の各国の人々との交際を(私儀)整理を致しまして、

物産を興し工業を励まします。その他の要務でも数件着目致している次第も有之、

学校と外務の両件は、昨春上京する迄は、私が長崎裁判所任務中取り掛かりに付、

十分続行する見込みの有之、

又、第一天主教播伝之フランス教師巡行等の儀に付き、

篤(まじめ)と験証致し置きます儀も有之、

妄暫(もうしばらく)長崎県に置いて勉強仕し長崎県の御用に相立ちたく志願に御座候。

此の段、御採用願い奉り候。

謹具

正月19日           希昌

ーーーーーーーーーーーーーー

それでも…、

明治政府からの返事が無いままに春を迎えていた。

この頃になると…【希昌】の夢も広がっていた。

洋学校を開設して、各国の要人から得た知識で物産と工業の発展に尽くそう…と。

明治4年4月中旬を過ぎて、

ようやく【大隈重信】侯より、東京へ至急上京せよとの連絡が入った。

【希昌】は養母に「必ず官職を辞して長崎に戻ります」と決心を伝えた。

東京へ着くと、迎えの者が「外務省の官舎で暫くお待ち下さい…」と案内をした。

しかし、それから毎日待てど暮らせど連絡が無いまま…日は過ぎて行った。

明治4年4月30日、【希昌】は突然深夜に起こされた。

「【大隈重信】参議が、外務省でお待ちで御座います」と告げられ…

公用馬車に揺られながら【希昌】は訳がわからず…考え込んでいた。

※しかし、この時【平井希昌】自身が全く知らぬ間に、

人生航路は、大きく方向を転換して、曳航され始めていたのだ。

∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

明治4年4月30日

新潟県にて「御傭い英国人【キング教師】暴漢に襲われる!」

夜半…外務省に一報が届けられた。

直ちに刑部省へ新潟へ向かう様に指令を下した。

――――――――――――――

[外務省]

【平井希昌】は外務省へ到着した。明かりが灯る部屋へと案内されると。

その部屋には、

【澤宣嘉】外務卿

【副島種臣】参議

【大隈重信】参議が深刻な顔付きで話し合っていた。

【平井希昌】は黙礼をした。

「おお!久し振りだなっ…」と【澤宣嘉】外務卿が手招きをした。

※明治元年、

<長崎奉行所>が解体されて、

<長崎裁判所>が開設された。

その初代総督が【澤宣嘉】侯だった。

配下の【平井希昌】は少参事、《長崎県副知事》と成った。

【澤総督】は早速【希昌】に指示を下した。

世界共通の法律、「万国公法」10巻を至急翻訳せよと。

その後、【澤宣嘉】総督は明治政府の要請で長崎を発ち東京の任務へと向かった。

それ以来だった…。

深刻な思いで近付くと【大隈重信】参議が【希昌】に向かって言った。

「朝に成ったら、三田の【英国公使館】へ向かう仕度をしてくれ…陳謝しなければ成らない大事件が起きたのだ!

【平井希昌】はこの4月より外務省の文書権正に任命を致す。【副島種臣】参議と明日連席をして貰う」

「ええっ…この私がでしょうか…、今回…東京へ参りましたのは、

【大隈重信】侯へ既に退官願の書翰を3度送らせて頂きました。

…長崎の病身の母親を私が看なければ成らないのです…それに」と

言い終わらぬ内に、

【副島種臣】参議の声が荒々しく天井に轟いた!

「何を言ってるのか!!…天下国家のこの一大事に、女々しい話しなどするでないっ!」と眉を吊り上げた。

肥前長崎は肥前佐賀と隣り合わせだった。

その音に聞く佐賀藩士の

【副島種臣】(そえじま  たねおみ)は、文武に長けた豪胆な気骨と信念の強者だった。

【大隈重信】も10歳年下の…やはり肥前佐賀藩士だった。

【平井希昌】も【副島種臣】より10歳年下だった。

∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

現代~知友と私~

「可哀想に…人生って…何が起こるか判らないなァ…。

日記によると外務卿は【澤宣嘉】から【岩倉具視】となったが、

11月には【岩倉具視】が欧米使節団の代表となり、

出発するために【副島種臣】が第三次外務卿となったとある…」と言いながら、

知友が資料の中から、1枚の写真を取り出して私に見せた。

明治18年11月3日 【明治天皇】の天長節 平井希昌家の女性集合写真の前列左端より 先妻の娘・平井家養母・実母・後妻の竹子。

明治18年11月3日
【明治天皇】の天長節
平井希昌家の女性集合写真の前列左端より
先妻の娘・平井家養母・実母・後妻の竹子。

「…この写真は以前、子孫の【平井社長】から頂いた再生写真だよ、

裏面に明治18年11月3日【鈴木真一】撮影とある」

「何か…記念撮影の様だな…」と私は知友を見た。

「あァ…【希昌】の母親たちだよ、明治天皇の生誕祭に身内だけで記念写真を撮った時のだよ…。

書翰では病身と訴えていた様だけれど、

【平井社長】の話しに寄ると養母も実母も共に80歳過ぎても元気で長生きしたそうだよ」と知友がニヤリと笑った。

※撮影者の【鈴木真一】は明治の著名な写真家。

平井希昌(その21)【前代未聞の葬列の大移動】《【大隈重信】侯へ【希昌】 3度退官願届 (Ⅰ) 》 in 長崎明治4年 by 長尾佐栄

平井希昌(その21)【前代未聞の葬列の大移動】《【大隈重信】侯へ【希昌】3度退官願届(Ⅰ)》in 長崎明治4年     by長尾佐栄

平成27年8月お盆休み

~知友と私~

あと1か月で「鶴谷八幡宮」の大祭が近づく…この季節は、千葉県南端の人々の心もそぞろ騒ぐのだ。

「今年も山車を曳くのか…」

私は、知友に笑いかけた。

「あァ…お前だって神輿を担ぐんだろ?」と、知友もニヤリと笑った。

日曜日の午前中から、

自宅の客間で知友と二人で、幕末から明治時代に掛けての資料を広げて、

【平井義十郎(希昌)】の履歴を辿っていた。

冷房を効かせた東南の角の客間に、妹が入って来た。

「三芳の〈亀や和草〉の(麩ふ餅)をどうぞ…」と、和菓子と冷茶を差し出してから、

「私はこれから東京へ…」と言って出掛けて行った。

「うん!…夏バテには、

この〈亀や和草〉の(麩ふ餅)が旨いなァ~」と、知友が口に運び冷茶を飲み干した。

∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

ー明治ー

明治3年の初め、長崎県副知事だった【平井希昌】は、

その職を引き継ぎ、急遽、<大阪~神戸>区間に汽車を走らせるための、

鉄道敷設工事(線路工事)の初期業務に携わった。

その期間は、明治3年4月から12月までで、

【大隈重信】・【伊藤博文】・【井上馨】へ宛てて、工事の進捗状況を書翰で送っている。

また、明治3年12月7日の鉄道関係の任務終了時には、

【大隈大人】閣下宛に書翰を送っている。

「一書拝呈仕候う。先月二十二日に、橋本【橋本小一郎】一同、大阪へ着きました。

【モレル・エンゲラント】も既に着任致しております。

この節 、一同集会、御用向きの引き継ぎ等に取りかかり……云々。

然るに、私は、当夏(この夏)、在府中の伊藤【伊藤博文】公へも申上げ置き候う通り、

長崎表の外務 、其の外(そのほか)  を、其の儘(そのまま)に、相成居候うに付き、

一応、下崎(長崎へ下り)、仕度所願に御座候、

(色々したくを致したく候う)………云々。頓首謹言       【平井希昌】

また…同日<工部省>へも、長崎へ戻る旨の書翰を送った。

ー工部省御中ー

私儀、当地の御用向きは、【橋本小一郎】へ引き継ぎ相済み候う。

兼ねてより御達しの通り、当年内に東京へ向かう積もりで折りました。

しかしながら、今年の春に至急の御召しに、

長崎県より倉皇出府、

間もなく鉄道の御用係りを、仰せつかり候うに付き、

長崎県に於いての事務の仕事、やり残したままに、

就中外国人引き合わせの向きもあり、

一度、長崎裁判所の残務整理の為に長崎へ下りますので…云々。【平井希昌】

ーーーーーーーーーーーーーー

この後、【大隈重信】へ宛てた手紙には…。

明治3年12月27日に下崎(長崎へ下着)と記されてあるから、

途中用事を済ませながら帰郷した模様だ。

ーーーーーーーーーーーーーー

ー明治4年正月ー

【平井希昌】は、長崎の屋敷に戻り、至福の時を過ごしていた。

今年から長崎県権知事に【宮川房之】が新任された。

その挨拶に出向いた後は、長崎裁判所の仕事初めまで、

【平井希昌】は、屋敷に居て訪れる客と歓談をしては、ワインを呑み交わした。

やがて話は…、必ず「陸蒸気」(おかじょうき)と言う乗り物についての情報を問われた。

皆…「汽車」の話を聴きたくて堪らないのだ。

【平井希昌】は快く答えた。

この最新鋭の重機や測量の方法、延々と続く枕木の上にやがて乗せられる鉄の棒…と。

「…山々を貫き、河川に橋を掛ける、その為の工事が難攻する事しばしばだ、

…だが整えられた敷設に二本のレールが敷かれれば…「汽車」と呼ばれる車輪を装着した巨大な鉄の箱物を乗せるのだ。

そして、そこへ…人々が乗り込み座席に座る。…すると…汽笛が鳴り響き、

その鉄の箱は走り出すのだ!その馬力は雷の如し!!…」

「お~~ォ」

昨年、鉄道技師長の【モレル】たちが、

【平井希昌】に英語版の汽車の図面を広げて見せた。

それは…想像以上に巨大な鉄の箱だった。

やがて…車輪をはめて走り出す「汽車」は、その速さが雷の様だと聞いていた。

来客たちは、目を輝かせて驚き、【希昌】に尋ねた。

その「汽車」の…燃料の源は何か、何故それが走るのかを…。

ワクワクする明治の交通の開幕だった。

やがて【希昌】は、機嫌良く…家族に声を掛けた

「熱いコーヒーや、カステラを…」と、

その声を聞くと、直ちに母親たちは浮き浮きと立ち働いた。

養子先の、この平井家の屋敷へは、【希昌】の生家の森家の母親も正月から来ていた。

両家とも稀にみる仲の良さで姉妹の様に和やいでいた。

まるで浦島太郎かと…思われる程に、正月はあれよあれよと10日が過ぎていた。

【希昌】は、久しぶりの平穏に笑い、教え子や唐通事、幼なじみの消息を耳にしては、

「ほう!」と目を丸くして、何度も頷いていた。

【平井希昌】にとって、長崎は離れがたい、離れては成らない。

その全てが【平井義十郎(希昌)】そのものだったのだ。

しかし、頭の隅には…どうしても解決しなければ成らない東京への任務命令が…し・こ・り…の様に鎮座していた。

幕末、長崎へ全国の藩から武士達が遊学して来た。

医学、薬学、科学、天文学、地理地形、蘭学、語学等々と、

長崎は日本列島の学問の最高峰だったのだ。

なかでも出島で活躍した、唐通事(通訳)たちは、一族伝来の家族構成の中で幼くして中国語、蘭学を学び、

早い者は、【平井希昌】や【何礼之】【柳谷謙太郎】達の様に7才頃から<英語>の教育も薦められていた。

(平井家資料より)

これら通事たちの最新情報が学問の道を開いていたのだ。

幕末時、【平井義十郎(希昌)】は、語学所〈済美館〉の学頭も兼任していた。

この頃、フランス語の教え子の中に土佐藩の【中江兆民】もいた。

明治元年頃には、【西園寺公望】もフランス語を【平井希昌】から学んでいた。

ーーーーーーーーーーーーーー↓

ー前代未聞の葬列の大移動ー

明治29年2月15日

故人【平井希昌】の葬儀の日

教え子だった【西園寺公望】侯は外務大臣兼任として、当日の葬儀委員長となった。

【西園寺公望】侯爵 故人【平井希昌】の法要に 生花1対を贈る

【西園寺公望】侯爵
故人【平井希昌】の法要に
生花1対を贈る

宮内省からの使者のお出迎えには、唐通事だった【柳谷謙太郎】が、

親戚代表として通常礼装で接待をした。

DSC_0209

明治29年2月15日 宮内省勅使    ー奉迎ー 親戚代表として、柳谷謙太郎は、玄関外  通常礼服にて出迎えた。

明治29年2月15日
宮内省勅使 ー奉迎ー
親戚代表として、柳谷謙太郎は、玄関外 通常礼服にて出迎えた。

飯倉狸穴(まみあな)の【平井希昌】邸(※後のロシア大使館)から、

葬列は二列編成でも長蛇の列となり、愛宕の名門【青松寺】へと向かった。

しかし、余りの長蛇であったので、法要は40分遅れて始まった。

この法要後、<石碑建立>という強い要望によって、

【青松寺】の荘厳華麗な門を後にして、

広い墓所の用意がある南麻布の京極家名門【光林寺】へと、

大移動する事となったのだ。

法要に列席していた【大隈重信】侯は、失った自身の右足を庇いながら杖を付き立ち上がった。

横側の【山県有朋】(※内閣総理大臣経歴)や【原敬】(※後の内閣総理大臣)に、

「【平井希昌】のためだ…南麻布の【光林寺】迄…付き添いて行こうではないか」と促した。

宮内大臣の【土方久光】も【大隈重信】侯を気遣いながら【西園寺公望】侯へ向かって何度も強く頷いた。

【西園寺公望】侯はそれに励まされ…深々と頭を下げた。

この日の葬列のために【西園寺公望】侯は、

故人【平井希昌】の供花に<生花>台付き1対を二人の人夫白丁付きで送っている。

やがて馬車、人力車が政界・財界・文芸界の多くの偉人たちを乗せて、

再び壮大な葬列と成って動き始めたのだ。

【土方久光】

  【土方久光】

【マウンテン県の友人を持っています]

  【山県有朋】

【旧キング]

   【原 敬】

∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

現代

~知友と私~

「…ところで、例の【平井希昌】の<退官>願いの書翰は読み取れたのか…」と、知友が私に尋ねた。

「あぁ…訳して見たよ…【平井希昌】が、家族の事情もあり、

どうしても長崎に留まりたいと訴えているんだが…」と、私は首をふった。

————–

大隈重信関係文書9  はとーまつ「みすず書」

早稲田大学大学史資料センター編   〈参考書籍〉

¯¯¯¯¯¯¯¯¯¯¯¯¯¯

※明治4年1月11日

※【大隈大人】閣下へ(Ⅰ)

謹啓  私儀、旧12月27日長崎へ戻りました。

それぞれの家族等を引き連れて

東京へ出る様にとの御用向きをつかまつり候う処、

養母七旬に近く、実母も既に六旬を越え、遠洋船に乗り渡る事を両人共に怖れ驚き、

その上、私が再び官に使える為に長崎を出てしまう事も、相拒み候う。

愚痴ばかり申し上げて御聴に達し恐れ入り候う。

しかし私の他に、之を代わって養う兄弟、妻子の類一人も無く、両人の老寡婦のみで候う。

又ことさら、老衰の日に在り、私儀を頼りといたし候う。

私が、家、故郷を、立ち離れ候うは、両老母の心中裂くが如く、

…実に真中いじらしく、加えて老病中で候う故に、

私に於いても、思い切って手離す事は容易ならず、

ぐずぐずと訓論自ら日を費やし、私儀も、心痛の余り…、

この節は胸が痛くなり、家で寝込んで起き上がれず候儀に御座候う。

願わくば、【大隈重信】閣下の大慈を以て、私儀が官に尽くす日は尚永く先が有りますが、

しかし、両人之老母を奉する時は限りがありて、

ここは御明察…願いたく候う。

暫く故郷に駐り、孝養相叶えて下され候うば、

この上も無く大きな御恩と感じて、御奉公申し上げ候う。

此段瀝情謹啓仕候。頓首百拝

正月11日                   平井希昌

¯¯¯¯¯¯¯¯¯¯¯¯¯¯

~知友と私~

「しかし、この書翰を【大隈重信】へ送ってから…何の返書も無くて、

どうやら…【希昌】は再び悩んで、

正月19日に再度【大隈重信】へ宛てて書翰を送ったんだ…」と私は知友に説明をした。

「しかし、【平井希昌】は長崎裁判所の少参事へ昇格する直前に、

奥さんを亡くしてしまっているから…気の毒だな」と知友。

「あァ、それにしても長い手紙だったよ…。あと2通あるけれど、

昼飯を食べに行かないか…腹が減ったよ~」と、私は背伸びをした。

客間から見える庭は、カンカン照りだ。

築山の百日紅の赤い花が馬鹿に元気に鮮やかに映えている。

知友と私はサンダルを突っ掛けて外へと出掛けた。

フォロー

新しい投稿をメールで受信しましょう。