平井希昌【前代未聞の葬列の大移動】 終了のお知らせ by長尾佐栄

平井希昌【前代未聞の葬列の大移動】終了のお知らせ by長尾佐栄

ブログ「安房国再発見」に【前代未聞の葬列の大移動】平井希昌(その1)から(その28)までを投稿してきた長尾佐栄です。ペンネームである作者長尾佐栄は、すべての作品とペンネームの公開が終了したことをご報告いたします。長年にわたってご愛読いただき深く感謝しております。2016年12月吉日

 

 

 

 

 

 

明治期・館山の殖産興業と小原金治

                     2013年12月

明治期・館山の殖産興業と小原金治  

                                   愛沢伸雄(NPO法人安房文化遺産フォーラム代表)

明治期に千葉県議や衆議院議員であった小原金治は、安房銀行(千葉銀行の前身)や房総遠洋漁業(株)の設立や経営に関わっていたので、安房の殖産興業をたどるうえで重要な人物でした。金治の生涯については、資料に乏しく不明な点が多いのですが、最近、館山市南条の生家(村上宅)から自筆の『自叙伝草稿』(以下、「草稿」)の断片が発見され、生涯の一部分が明らかになってきました。この「草稿」の内容と、明治期の天才洋画家青木繁が逗留した富崎の小谷家住宅から近年発見された水産資料を通して、明治期・館山の殖産興業を概観してみます。

小原金治は、1859(安政3)年に旧南条村の豪農であった父桂助と母かよの長男として出生しました。12歳で館山藩士であった叔父小原(大館)義直から初めて読み書きを学んだといいます。後述しますが、館山藩と関わっていたことが地域のさまざまな人脈につながっていきます。少年期から22歳までを見ると、幕末や維新動乱期に若者たちがどのような思いでいたかの一端がわかります。家族労働での農業の傍ら、実に自ら学びのために動いていることです。記載されている人物は、石橋磯吉や豊前寺住職宥海、根岸久勝、新井大吉、山田桃渓などの館山に住む漢学の師を訪ねて勉強しています。なかでも根岸久勝は八幡村名主であり、1848(嘉永元)年から1871(明治4)年まで鶴谷八幡神社の近くで私塾「根岸学舎」を開いていた人物でした。また、新井大吉は新井文山(1779(安永8)~1851(嘉永4)年)の息子と思われ館山藩校の教授でした。なお、新井文山は館山藩主稲葉正巳の重臣になった儒者で、幕府の昌平坂学問所総長(儒官)佐藤一斎の門弟として全国的なネットワークをもっていました。

金治が21歳のときに大きな転機が訪れました。それは金銭問題で裁判所に民事訴訟をおこし勝訴した出来事があったからです。折しも自由民権の嵐が吹き荒れていた時代であり、政治を見る眼や法律に強い関心をもって、北条村において何回か開催されていた民権派の演説会に参加しています。東京からは大隈重信の片腕であった小野梓や経済学者の田口卯吉が来房し、地元からは県議の小原謹一郎や布良村の若手活動家の満井武平らが熱弁をふるっていました。それらを見聞したことが政治の世界に入っていくきっかけになったと思われます。

激動する明治初期に22歳の金治青年は大きな志をもって上京しました。当時、著名な漢学者の岡千仭(鹿門)の塾に通い、夜学の法律学校で学んだといいます。しかし、3年後に父が重病になり、やむなく帰郷しています。その頃北条村で開催された民権派演説会において、金治は弁士の一人になっており、それらの活動のなかで1884(明治17)年には南条村会議員に選ばれています。

村会議員の時代、無法状態にあった房州白土採掘とその土地所有について村民から相談を受けました。その経緯のなかで金治は県や国に働きかけて村民としっかりとした契約関係をもつ白土会社を立ち上げたのでした。「安房坑業会社」と呼ばれた白土採掘会社は、「東洋煙草大王」の異名をもつ岩谷松平が社長となり、地元からは金治自らが取締役となりました。最近、源慶院からこの白土採掘会社と契約を結んだ当時の吉田智道住職との間の契約証書が発見されました。

岩谷は松岡村出身の福原有信とともに東京・銀座で活躍していた経済人で、後に東京選出の衆議院議員になっています。さまざまな商品を扱った全国的な商社の岩谷商会と関わり、金治は初めて実業を学んだと記載しています。金治の身近にいた親しい政治家は、館野村出身の県議小原謹一郎でした。この人物は公共事業的な海運業を訴える正木貞蔵に共鳴して、安房汽船会社を創設していますが、運賃競争に敗れて大きな負債をかかえて36歳で亡くなっています。また、金治には盟友であった満井武平を通じて、彼の叔父である富崎村長神田吉右衛門との交流がありました。

1890(明治23)年、金治と満井はともに県議に当選し、二人は力を合わせて安房の殖産興業の発展に取り組んでいきました。当時、日本水産界のパイオニア関澤明清や地元水産業の代表的な人物である神田吉右衛門らは、自らの手で近代的な水産事業のあり方を模索していました。満井は大隈重信の立憲改進党に入っていきましたが、金治は党派にこだわらない政治的な立場をとっていました。しかし、県議3期目になった35歳の金治は、盟友の満井や角田真平(号竹冷)の仲介により大隈重信と会見して、その後は大隈の理念に共鳴し立憲改進党の一員となっていきました。

衆議院の解散後、安房の候補者選定のなかでは、大隈の側近岡山兼吉らの説得もあり、金治は県議を辞して改進党候補者に擁立されました。1894(明治27)年、日清戦争勃発の年の9月におこなわれた第4回衆議院議員選挙に立候補しました。立憲改進党から重鎮の島田三郎らが応援に入るなど、安房国改進党は金治の当選のために全力をあげて取り組み、自由党の加藤淳造を押さえて見事当選しました。

日清戦争の最中のなかで注目される記載が「草稿」に見えます。後に東京株式取引所理事長になった同僚議員角田真平の仲介によって、金治が勝海舟と会見したとのことで、そこでは日清戦争と国政のあり方について懇談して、勝海舟の髙い見識には驚いたと書いてあります。

1897(明治30)年までの3年間の国会議員の活動で、明治期安房の歴史的な出来事では注目されることが三つあります。その一つが神田や満井らの水産業改革を応援しながら、関澤明清が館山を中心に取り組んでいた先駆的な遠洋漁業を奨励する法律に関わっています。二つ目は県議時代より正木貞蔵らが取り組んできた公的な海運事業「安房団体」を組織したことです。水産業の振興のためには安定的な海運業の振興が重要でしたが、常に資金的な課題を抱えていました。三つ目に金治は殖産興業の資金を調達していく金融機関設立が安房には急務であると安房郡長の吉田謹爾に相談していました。吉田の義父は館山藩士で金治の叔父と仲間でした。8歳年長の吉田とは金治が村議や県議の時代から強い結びつきがありました。金融機関を設置していく方策では、金治や吉田は安房出身で大物の大蔵官僚であった曽根静夫国債局長に相談したと思われます。曽根は日清戦争期に戦時国債の発行で戦費調達に成功させた人物として金融界では大きな影響をもっていました。金治と吉田と曽根の三者連携のもとで安房ゆかりの企業人であった福原有信や浅田正文らを発起人にして、1896(明治29)年に現千葉銀行の前身でもある安房銀行がスタートしました。

謹厳実直で実務派の吉田謹爾は郡長を辞めて専務取締役として全てを仕切っていきました。この年に金治は病気になって快復後も体調に自信がなかったのか3年間で議員生活を終えています。しかし、地元では先頭に立って本格的な安房の殖産興業の取り組んでいきました。1897(明治30)年、館山においてモデル的な遠洋漁業事業を実践し企業化のきっかけをつくった関澤明清が志半ばで急逝しました。関澤の実弟鏑木余三男は、その遺志を継いで房総遠洋漁業株式会社の創設を呼びかけました。翌年には安房銀行の資金や国からの遠洋漁業奨励金が投入されて、北洋のオットセイ・ラッコ猟を主とする本格的な漁業会社が設立され、金治は社長に就任しました。

近代的な水産業を模索していた盟友満井の叔父神田吉右衛門は、富崎村長として数多い遭難漁民の救済や鮪延縄船改良の施策をはじめ、鮑組合の収益を教育など公共事業のために使い、人びとに敬愛されていました。また、「資生堂」創業者の福原有信は帝国生命保険会社の設立にも関わっており、1894(明治27)年には社長となっています。当時安房郡長であった吉田謹爾らは遭難者家族救済のための保険事業の推進を呼びかけていきます。神田も全国でも先駆けて遭難者救助積立金制度や布良同盟保険をつくり、福原有信の帝国生命保険会社と連携した取り組みをおこなっています。実はこの動きが人びとの貯金制度などのきっかけとなり、不安定な金融業のなかにあって地域密着型の安房銀行は、強固な経営基盤をつくり地域振興に大きな貢献をしていきました。

その後も小原金治は、安房に関わる金融・経済人などさまざまなネットワークを通じて地道に地域の殖産興業に努め、吉田謹爾が亡くなった1914(大正3)年には安房銀行頭取を引き継いでいきました。千葉県内の金融界の重鎮として千葉銀行創設に安房の地から一石を投じるなか、1939(昭和14)年に79歳で没しています。

福原有信と明治期の館山~「没後90年」になる福原有信

                     2013年12月

福原有信と明治期の館山~「没後90年」になる福原有信

愛沢伸雄(NPO法人 安房文化遺産フォーラム代表)

福原有信は1848(嘉永元)年、安房国松岡村(現館山市竜岡)で父有琳・母伊佐(明石村豊岡家)の四男(長男陵斉・次男栄蔵・三男元栄・四男有信)として出生し、幼名を金太郎といいました。

福原家は代々医者(市左衛門・菩提寺見院)で、有信の父有琳は医者ではなかったが、祖父有斉から長兄陵斉に家業が受け継がれていました。1863(文久3)年に陵斉が26歳という若さで亡くなり、翌年正月には祖父有斉が亡くなりました。16歳になっていた有信には家業を継ぐことが求められ、1864(元治元)年に上京して、親戚の医者を頼って緒方洪庵の高弟織田研斉の門に入りました。

幕末という動乱の時代にあって織田門下で修業しながら、幕府医学所において西洋薬学を学んでいきました。その後、幕府医学所頭取の松本良順(佐倉藩順天堂総裁佐藤泰然の次男)に認められ薬学の専門家として頭角を現していきました。

明治に入って海軍病院薬局長を経て、1872(明治5)年には、23歳で東京銀座に「洋風調剤薬局資生堂」を開業することになり、有信は医薬分業の礎を築いていきました。医薬分業を法制化するために「日本薬局方」の制定には大きな精力を傾けるとともに、日本で最初の近代的な製薬工業をおこし、1885(明治18)年に大日本製薬会社の創設に関わっていきました。

その間、日本最初の練歯磨「福原衛生歯磨石鹸」は好評を博して資生堂の名が高まっていきますが、薬品類だけではなく日常の生活衛生用品や化粧品の製品開発もおこない、今日の資生堂の源流をつくっていきました。1889(明治22)年に不十分ながらも薬剤師制度ができたことで、「日本薬剤師会」が結成され、医薬分業の先駆者として有信は初代会長に推挙されています。

そして、前年の1888(明治21)年には「帝国生命保険会社(現朝日生命保険)」の創設に関わり、1893(明治26)年に社長となっています。なかでも安房の漁民の水難救済事業に貢献したことが、小谷家からの水産資料から明らかになっています。

また、1896(明治29)年に安房銀行(現千葉銀行)設立の発起人となり、松岡村を通じて安房の殖産興業を支え、ふるさとの発展に力を注ぎました。1898(明治31)年には、有信の長女とりが館山病院初代院長川名博夫に嫁ぎ、松岡村だけでなく館山町においても長女とりを通して深い絆が築かれていきました。後に関東大震災によって館山病院が壊滅的な打撃を被ったとき、有信は全力で地域を支援し館山病院の再建に大きな役割を果たしました。そのようななかで療養型サナトリウムをもつ病院がある館山は、転地療養の地として全国的に知られるようになり、銀座資生堂が館山病院の東京営業所になっていたのです。

なお、有信は財界の重鎮渋沢栄一との交際がありましたが、有信の四女美枝が渋沢の次男武之助に嫁いだことで姻戚となり、さらに深い関係となっていきました。渋沢栄一が渡米した際には、館山病院2代目院長穂坂与明が侍医となって随行しています。後年、資生堂を託された長男信一は若くして亡くなったものの三男信三に受け継がれ、今日の資生堂繁栄の基礎がつくられました。

有信は明治から大正の激動する時代にあって、帝国生命保険会社経営を安定させながら、生命保険会社協会理事会会長として保険思想の普及のために全力を挙げていたなか、関東大震災に遭遇し大きな被害を受けました。その再建の最中、翌1924(大正13)年に77歳で没しました。

生誕の地の松岡八幡神社には、「明治四十四年 福原有信」と刻まれた鳥居や、1995(平成7)年建立の資生堂ゆかりの記念碑があります。また金毘羅様を祀る裏山の鳥居には「松岡 福原栄蔵 布良 木高太治郎」と刻まれ、富崎地区布良の漁民たちと深い関係があることがわかります。さらに遍智院(小塚大師)には「福原之墓(明治四十二年福原栄蔵建立)」があり、有信・徳子夫妻の名が刻字されているとともに地域での福原家の人脈を読み取ることができます。この碑の横には有信の父有琳・母伊佐の墓石と、若くして亡くなった兄陵斉の墓石があります。(愛沢 伸雄)

祝!千葉県文化財保護協会より表彰

このたび、NPO法人安房文化遺産フォーラム代表の愛沢伸雄が、

千葉県文化財保護協会より、長年にわたる文化財保護の功労を表彰されました。

【功労の内容】  本年1月、館山市所在の戦国大名里見氏「稲村城跡」が国史跡に指定され、保護・活用の環境が整った。稲村城跡については、市道路建設計画が具体化し破壊直前の状況にあったが、愛沢氏は「里見氏稲村城跡を保存する会」を立ち上げ、氏が世話人代表となって保存運動を展開、存在の意義や文化財的歴史的な価値観・重要性を強く訴えてきた。「保存する会」は会員数100余名、城跡内の定期的な草刈りをはじめ、展示会・ガイドブックの作成、案内板の作成、現地案内や学習会、冊子の刊行、周辺重要城跡の見学会等々、16年の長期に亙り様々な活動を行ってきた。こうした活動は内外の賛同を得、行政も請願を採択、国史跡指定への原動力となった。これまで「館山市稲村城跡調査検討委員会」委員をつとめ、本年より「館山市稲村城跡保存・管理計画策定委員会」委員の委嘱を受け、市民代表として保存・整備計画に取り組んでいる。また、教員在職中から安房地域における戦争遺跡の調査・研究をすすめ、このうち赤山地下壕が館山市の史跡指定を受けるなど、氏の文化財保護に尽瘁した功績は極めて顕著である。

【御礼挨拶】 御礼挨拶:H24千葉県文化財保護功労賞

 

鏡が浦と富士山

小春日和の暖かで澄んだ館山湾には、雪冠を抱いた美しい富士の姿が見えます。

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里見氏稲村城跡保存会の解散ご挨拶

このたび里見氏稲村城跡を保存する会は、本年7月29日に開催されました第17回総会の議決によりまして、当会を解散することとなりました。1996年4月の発足以来、稲村城跡の保存と史跡化をめざして様々な活動をおこなってまいりましたが、このたびの総会におきまして保存運動の組織体として掲げてきた目的が達成したと確認し、当会の役割は終えたと判断して解散する運びとなりました。これまで活動してこられましたのも、ひとえに皆様方からの温かいご支援ご協力をいただいた賜物であったと、心より深く感謝を申し上げます。ありがとうございました。

17年にわたって地元・地権者をはじめ行政当局や議会関係者、各界の皆様のご努力が実を結んだ結果、当会が念願しておりました「里見氏城跡(稲村城跡・岡本城跡)」が、本年1月24日付き官報で国史跡として告示されました。国史跡が実現したものの今後の史跡整備には長い道のりになっていくと思われますが、将来にむけての第一歩が踏み出されたことは大変喜ばしく思っております。多くの皆様の応援があってこそ、国史跡にふさわしい里見氏城跡公園が実現していくものと思っております。今後において、他の里見氏城跡の追加指定の可能性もあり、里見氏城郭群が安房地域の歴史文化を活かした地域づくりになっていく貴重な一石になっていくことを強く願っています。

なお、当会は解散いたしますが、総会におきまして当会が歩んできた精神を活かすため、引き続き里見氏の歴史や文化財、なかでも城郭のことを学びながら、里見氏の歴史文化を普及する文化活動に取り組んでいくこととなりました。戦国大名里見氏の歴史および城郭について知る人を増やしていくとともに、歩いて学びながら会員の知識を深めていくことを目的とする新しい会は、「歩いて学ぶ里見氏の会」(会長:島田輝弥)という名称となり会則や役員も決定しました。今後はこの新たな会へ移行しますので、これまでと変わらぬご理解ご協力を賜りますようよろしくお願い申し上げます。

また、これまでの保存運動に関わってきた稲村城跡や他の城跡などの保存活用について、とくに地域づくり(史跡整備などにむけての利活用や観光まちづくり)の面では、当会と連携してきたNPO法人安房文化遺産フォーラム(代表愛沢伸雄)が当会の精神を活かして地域づくりに関わっていくことが確認されましたので、合わせてご報告いたします。

今日、東日本大震災が大きな傷跡を残して、その復旧事業には地域づくりのあり方が問われています。そのような時代状況のなかで官民一体となり、地域の人びとと手をたずさえ知恵を出し合って、後世の人びとに歴史遺産を残していきたいと考えています。そのためにも安房という地域がもっている多彩な歴史・文化を学びながら今後も歩んでいきたいと思っております。今後ともよろしくお願いいたします。

里見氏稲村城跡を保存する会 代表  愛沢伸雄

 

(左から、愛沢伸雄・金丸謙一館山市長・島田輝弥)

【房日】赤山地下壕見学&まちなかウォーク

2012年8月5日

~赤山地下壕・紙芝居「八犬伝」 & まちなかウォーク~

◆赤山地下壕ガイドサービス

館山市を代表する戦争遺跡です。だれが、いつ、

何のために、どうやって、掘ったのでしょうか。

これを、どんな風に使っていたのでしょうか。

戦争のとき、館山はどうだったのでしょう。

そのころの子どもたちは、どうしていたのでしょう。

終戦の日も近いので、みんなで平和を考えましょう。

*集合=9:30~11:30
*受付=豊津ホール(宮城バス停1分)
*入壕料=おとな200円・小中高100円
*ガイド料=無料サービス

◆紙芝居八犬伝&まちなかウォーク

*集合=14:30
*受付=銀座振興組合ビル休憩所(千葉銀行館山支店の向かい)
*参加費=おとな200円・小中高100円 *駐車場=中央公園(市立図書館となり)
*行程=紙芝居「里見八犬伝」~まちなかウォーク・歴史文化の再発見

~銀座ふれあいまつり ◎参加者にはオマケで金券200円のサービスがつきます。

◎紙芝居 『里見八犬伝』

安房をおさめた戦国大名・里見氏をモデルにして、伏姫と愛犬・八房と、8人のイケメン侍が登場する物語です。映画、歌舞伎、人形劇などで人気があり、ドラマではジャニーズの滝沢秀明が主演をつとめました。日本一長い小説ですが、15分でわかる紙芝居を楽しみましょう。

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◎北条まちなかウォーク

大正8(1919)年に鉄道が敷かれ、駅前ににぎやかな商店街がひらけました。東京の政治家や企業人、大学生などの保養地や水泳訓練の地として人気のまちでした。関東大震災や元禄地震の被害も大きく、階段状に隆起した痕跡や復興の歴史もみられます。図書館に近いサイカチの木は、津波のとき登った人が助かったという言い伝えがあり、いざという時に葉が食用・トゲが解毒剤・実が洗剤となるそうです。足もとを再発見しましょう!

.銀座ふれあいまつり

銀座商店街振興組合主催の納涼まつりで、自由参加です。八犬伝紙芝居・まちなかウォーク参加者には、金券200円のオマケがつきます。

*時間=16:00~20:30

*会場:太田整形外科の