【房日】館山ゆかりの渋沢栄一、新1万円札に関係者から喜びの声

館山にゆかりのある、実業と福祉の功労者・渋沢栄一が新1万円札に採用されることになりました。

房日新聞(2019年4月11日付)
「館山ゆかりの渋沢栄一、新1万円札に関係者から喜びの声」
⇒ 190411房日(渋沢栄一)_001

青木繁「海の幸」誕生と日露戦争の時代  4. 日露戦争のなかの布良の「海軍望楼」と「帝国水難救済会布良救難所」(3)「帝国水難救済会布良救難所」と日露戦争     愛沢伸雄

青木繁「海の幸」誕生と日露戦争の時代

愛沢伸雄(NPO法人安房文化遺産フォーラム代表) 

4.日露戦争のなかの布良の「海軍望楼」と「帝国水難救済会布良救難所」
(3)「帝国水難救済会布良救難所」と日露戦争

①帝国水難救済会創設と布良救難所設置の新聞報道

金刀比羅宮宮司の琴陵弛常は、洋行した黒田清隆からロシアの海難救助組織のことを聞いたことで、日本にも同様な組織が必要と私財を投じて設立に奔走した。1889 (明治22)年、香川県の金刀比羅宮において「大日本帝国水難救済会」が開催され、同所には本部が置かれ、有栖川威仁中将が総裁となり、琴陵鎮常は初代の会長となった。1892(明治25)年には本部が東京となり、1897(明治30)年以降は政府の資金が導入されるなかで、組織の拡充が図られ、全国の要所に救難所が整備されていった。日清戦争開戦までに10か所が設置され、日露戦争が終わる頃までには「布良救難所」をはじめ17か所が加わっていくが、日露戦争の戦時体制と連動して半官半民の公益団体は、全国的な規模になっていった。

   

「布良救難所」1903(明治36)年3月25日創立石鹸千億石鵺の書画(小谷家所蔵)
                             
東京朝日1903年5月6日2月15日東京朝日1904年7月31日

 ②戦時の布良救難所の役割と「ウラジオ艦隊」

 青木繁らが小谷家に梓留中のウラジオ艦隊の布良沖での動きに、「小谷喜録」は看守長としてどんな状況に置かれたのであろうか。 

戦時心得

一、本會救難所ハ戦時ニ於テモ平時に於ケルカ如ク施行スヘシ

二、敵國商船遭難ノ場合ハ絶対論戦闘力ヲ失ヒタル軍艦ノ遭難若クハ艦員ニシテ生命ヲ喪失セントスル場合ハ直チニ之ヲ救助シ市町村役場又ハ警察署ニ引渡スヘシ

三、救難所、救難支所、見張所、救難組合附近ヲ通航スル船舶ノH動ニ注意シ若尋常ニ非スト認メタルトキハ直チニ最寄警察署ニ通知スヘシ

四、敵國軍艦ト認ムヘキモノノ通航ヲ認メタル時ハ直ニ左ノ事項ヲ本部へ電報シ同時ニ最寄警察署ニ通知スベシ

一、往来ノ方向一、時刻一、艦體ノ大小及塗色一、掲揚シタル旗

一、鵺數一、煙突數一、ソノ他目標トスヘキ重ナルモノ

五、天候ソノ他重要事項ハ必ズ日誌ニ記載スヘシ

 

「ウラジオ艦隊、東京湾口部・布良沖に侵入」

7 月25日午後3時32分、布良救難所長発電
「当地漁船及他船の話によれば午前六時白浜沖に砲声を聞く」

7 月27日午後3時50分、布良救難所長発電
「午後零時五分、一時四十五分東南方に当り砲声遥に聞ゆ」

7 月27日、布良救難所長報告
「帽子七日南強風海上霧あり。午前八時二本鵺赤色煙筒黒色の大船東航せり。十一時頃千倉沖にて砲声聞ゆと聞けり。午後零時五分、一時四十五分東南東に当り遥に砲声を聞く。二時二十分二本鵺黒色の煙筒壱本を有せる黒色の大船西行す。望楼より信号したるも遠距離又は霧の為に判明せざりしにや、之に応ぜずして去れり。四時三十分二本鵺黒色の一本煙筒を有せる黒色の大船東航せり」

7 月30日、布良救難所長報告
「昨夜当所にては石井所長十一時まで詰切り小職は例に依り望楼附近に出張す。十時三十分、望楼にて第二艦隊へ電報送達の為め需要雇入れ依頼に付漁船を雇入れ、組長小谷安五郎外三名望楼長と共に乗船、二十四号水雷艇に送致す。午前二時再び望楼よりの依頼により、小鷹号に送致す。五時艦隊は東南方に向ひ航行し七時十五分水雷艇隊は湾内へ向け航行せり。零時三十分頃より砲声逐々聞ゆ。二時水雷艇二隻南方に向け疾走、約二十分間を経て五隻の水雷艇続行せり。またはは開戦せるならん。南方に方り砲声頻りなり。三時水雷艇は望楼と信号して湾内に向け航行し五時二十分四隻の軍艦当港沖合に見ゆ。之に依りて推考すれば、未だ開戦せざりしものの如し。如に耳にしたる砲声は何の音なりしや疑はし。八時軍艦及水雷艇は今尚アンカー泊せり

『帝国水難救済会五十年史』から日露戦争時の布良救難所活動
(「戦時下救難所ノ活動」の項の「一、救難所敵艦監視報告」「二、戦禍に因る海難救助」から抜粋)

※帝国水難救済会の「布良救難所」と「布良海軍望楼」との連携した取り組みがわかる。その際に布良の漁船も動員されていたことがわかる。また、布良は横須賀水雷隊特別攻撃部7隻の寄港地になったとの記載があるので、緊迫した状況はあったと思われる。

③軍事演習での「布良望楼」攻撃 「秋季演習報告」(明治32年12月18日)(概要)

 

午後0時53分〜3時16分水防盾網取付

午後3時30分第1特別方用に命令

命令(口述)

1.午後5時出艦

2.四直哨兵配備

3.明朝未明布良望楼を攻撃し、もしためすことができれば兵員を上陸して望楼を占領し敵情を得る。このために第2「カッター」を軍装して奥田大尉の指揮で、特に水雷兵4名及び必要な電気具を携帯…

(略)

午後7時31分布良望楼を北方約2傅に望む地点、望楼の砲撃を開始

午後8時砲撃を止め第2「カッター」を軍装し望楼占領のため派遣

午後10時19分派遣隊望楼に達し軍艦旗を掲げて占領を報す

午後11時派遣隊帰艦し報告する(口述)

敵の妨害を受けることなく布良村海岸に上陸し溝望楼に至る

2.人員はすでに逃亡したあとであった。

逓信大臣発陸軍大臣宛

青木らは布良が軍事演習の地であったことは、まったく知らなかったであろう。また、地域の人びとも軍や警察からの指導で他言しなかったと思われる。「布良海岸への上陸」とは、どこを指しているかはわからないが、布良望楼の攻撃とすると「阿由戸浜」であったかもしれない。

陸軍管轄の「東京湾要塞」と海軍管轄の「布良望楼」との連携を示す資料はあまりない。だが、次のような資料があったので、紹介した。これは緊急用に架設してある軍用電線が不用になったものを平時使用する場合、逓信省から要請があれば、保管転換をするという、陸軍省からの回答書類である。

この文書に「…こちら電線は東京湾要塞緊急警備ニ際シ…」となっており、付いている地図には陸軍管轄「軍用電線」が布良海軍望楼までは引かれている。この資料により、次項で述べる「軍機保護法」との関係では、東京湾要塞関連施設との繋がりがあれば、「沿岸警備の地区・地点及び戦闘に関することに抵触していることになる。

この写真は大正期の布良海岸で撮影したものと聞いている。(撮影者や撮影日時は不明であるが、布良の黒川写真館にあったといわれる)。軍人がスコップや旗をもっているので、災害復旧のために布良にきた陸軍部隊かもしれない。(関東大震災時か)

④戦時下の「郵便局」の役割

青木繁は、明治37年8月22日布良郵便局から梅野満雄宛に絵入りの書簡を出している。日露戦争の前夜、公衆電報をめぐって布良の人びとと海軍望楼との間で重要な変更があり、電報や手紙についての取扱では、布良郵便局の役割が高まっていった。

1903(明治36)年3月13日官報第5905号では、逓信省告示第159号で「…安房國布良海軍望楼電信取扱所ニ於ル公衆電報ノ取扱ヲ廃止ス逓信大臣子爵芳川顕正」とされ、その隣の欄に逓信省告示第158号があり、「布良…各郵便局ヲ三等郵便電信局トス其名誉及電報ノ取扱ニ関スル制限左ノ如シ逓信大臣子爵芳川顕正一、名誉布良郵便電報局一、電報ノ取扱ニ関スル制限一取扱フヘキ電報内外和文電報」とあり、2つの逓信省告示が対で記載。

1899(明治32)年7月15日、軍事上の秘密、いわゆる軍事機密(軍機)を保護する目的で「軍機保護法」公布され、「艦船艦隊軍隊ノ進退其ノ他軍機軍略ニ関スル事項」との記載だけで、その細目は示されなかった。

1904(明治37)年1月5日になって陸海軍省は、省令をもって軍機軍略を新聞・雑誌に掲載することを禁止にしている。陸軍省は1月12日に「新聞・雑誌記事取締り」に関して地方機関に注意を与え、左のような軍機漏洩を防止する目的を以て「禁止事項標準」を示したのである。

日本の機密保護関連の法律は、軍事上の秘密の定義が曖昧であったので、当局の恣意的な取り締まりが可能であった。当時、軍機保護法に関わる裁判の判決でも、何が軍機事項であるかは時と場所によって異なるとし、時々の当局の取り締まりに判断を委ねていた。それ、軍が秘密というならそれは秘密であるとの論理であった。

戦時であるので、青木らは海岸において軍事施設などの写真やスケッチは、当然禁止されたと言える。このなかで、富崎村にとって重要なのが、十番目の「沿岸警備の地区・地点及戦闘に関すること」であり、地方では警察がその任にあたった。

「帝国水難救済会」の「戦時心得」では「三、救難所、救難支所、見張所、救難組合附近ヲ通航スル船舶ノ水素動ニ注意シ若尋常ニ非スト認メタルトキハ直チニ最寄警察署ニ通知スヘシ」とあり、その警察的な役割の

実質的なトップが小谷喜録であったということである。

青木繁「海の幸」誕生と日露戦争の時代  4.日露戦争のなかの布良の「海軍望楼」と「帝国水難救済会布良救難所」   (2) 日露戦争勃発と要衝の地「布良」での動き    愛沢伸雄

 青木繁「海の幸」誕生と日露戦争の時代                                     

                                                       愛沢伸雄(NPO法人安房文化遺産フォーラム代表) 

4.日露戦争のなかの布良の「海軍望楼」と「帝国水難救済会布良救難所」
(2) 日露戦争勃発と要衝の地「布良」での動き

①日露戦争の開戦

1904(明治37)年2月10日 ロシアへ宣戦布告(日露戦争の開始)

 

(小谷家所蔵)

2月11日 ロシア海軍ウラジオストク艦隊(装甲巡洋艦3隻・巡洋艦1隻を基幹)が津軽海峡西方地域に現れる。この日津軽半島沖で「名古浦丸」、4月25日には韓国元山沖「金州丸」(3967トン)、6月15日には玄海灘において「常陸丸」(6172トン)と「和泉丸」が撃沈され、「佐渡丸」が損害うける。「常陸丸」は陸軍運送船で、乗船していた約1,000名の乗組員・兵士が死亡するという大惨事となる。

(『明治期国土防衛史』より)

6月15日~7月28日ウラジオ艦隊の動き(青木繁らが布良に来た期間なので別項で取り上げる。

6月30日には韓国元山港沖に現れ艦砲射撃を行い、7月20日には津軽海峡を抜けて太平洋沿岸を南下して東京湾口に。上村彦之丞司令官指揮の第2艦隊(装甲巡洋艦「出雲」・「常盤」・「磐手」など)は、ウラジオ艦隊の追跡にあて、哨戒活動をしていたものの神出鬼没で捕捉が難しかった。

この第2艦隊が対馬の浅海湾を出港し、7月25日南九州の都井岬沖から室戸崎へ、そして「布良」付近に向かうべしとの訓令を受け、28日正午過ぎに「布良沖」に到着したが、時すでに遅くウラジオ艦隊は北に去っていたのである。

第2艦隊が到着する前の約2週間は、太平洋宇沿岸、と りわけ東京湾口部でのウラジオ艦隊のゲリラ的な動き、その通商破壊戦のなかで、「布良海軍望楼」や「布良救難所」では大変な状況下にあったといえる。その動きは派遣されていた通信員によって記事が新聞社に送られ、大きく報道された。時に号外となったこともあり世論は激昂して、第2艦隊の上村司令長官は強く批判された。

まさにこの時期に、青木ら3名は、東京湾汽船(株)汽船に霊岸島から乗船して館山に来たわけで、布良での動きを通じ砲撃音を聞いたはずで海戦の姿を感じたはずである。

1904(明治37)年8月17日 内令「海軍軍用通信所条例」軍用電信取扱所ハ作戦上必要ノ地点ニ設置シ専ラ軍用電信取扱ニ関スルコトヲ掌ル…明治三十七八年戦役ニ於ケル軍用電信取扱所…有線電信ノ設備ヲ有シタル常設望楼(32か所)及仮設望楼(12か所) 「布良」

② 布良沖のウラジオ艦隊の動きによる危機的状況

布良海軍望楼は、民間地図などに記載された軍事施設である。日露戦争が勃発して、海軍が警戒していたのは、ロシア太平洋艦隊の「ウラジオ艦隊」が、東京湾口部に侵入して沿岸部(横須賀軍港・鉄道・港湾施設)に艦砲射撃を加えると輸送関係に致命的な問題になると軍部は危惧していた。

そこで布良や長津呂海軍望楼には,東京湾口部の防御上において、最重要の役割が与えられ、とくに横須賀鎮守府では水雷隊攻撃部水雷艇7隻で湾口部海域を巡回していた。その心配が現実のものになった。

1904(明治37)年7月下旬の東京湾口部での「ウラジオ艦隊」(装甲巡洋艦ロシア(13,675トン)・グロムボイ(13,220トン)リューリック(11,690トン)の各軍艦には、8インチ(20センチ)砲4門、6インチ(15センチ)砲16門を搭載。強力な攻撃力をもっていた)の動きであった。そのときに青木繁らは布良においてどのように向きあっていたのであろうか。

2月11日 ロシア海軍ウラジオ艦隊が津軽海峡西方地域に現れる。

6月15日 ロシア太平洋艦隊の一部でウラジオストック港を根拠にしているウラジオ艦隊(巡洋艦4隻)が玄海灘で兵員を輸送中の船舶を襲撃した。その結果、「佐渡丸」(6,226トン)が大破、「常陸丸」(ひたちまる)(6,175トン)と「和泉丸」(3,967トン)が撃沈され、国民に大きな衝撃をあたえた。

7月10日 津軽海峡を西から東に通過し太平洋に出て、汽船「高島丸」(318トン)を撃沈 し続いて英国汽船「サマーラ号」(2,831トン)を臨検・解放、さらに帆船「喜寶丸」(140ン)を撃沈し、汽船「共同運輸丸」(147トン)を解放、帆船「第二北生丸」(91トン)を撃沈した。

「(東京朝日7月26日付に記載された 22日以来25日午後3時に至る迄の露艦行動」)  

7月22日  塩屋崎沖(いわき市)で独国汽船「アラビア号」(2,863トン)を拿捕して、ウラジオストックに回航。南下して房総半島を廻る。

7月24日  御前崎沖で英国汽船「ナイト・コマンダー号」を撃沈。東方に向かい伊豆半島沖で帆船「自在丸」(199トン)と帆船「福就丸」(130トン)を撃沈し、英汽船「に図南号」(2,269トン)を臨検・解放した。そして、東京湾口部を動き廻る。

7月25日 野島沖では独国汽船「テア号」(1,613トン)を撃沈し、英国汽船「カルカス号」(6,748トン)を拿捕するとともに、ウラジオストックに回航した。

その後北上し7月30日に津軽海峡を通過して、8月1日にウラジオストックに帰港した。

  

(東京朝日1904年7月26日付)

7月28日 上村彦之丞司令官指揮の第2艦隊(装甲巡洋艦「出雲」(9750トン)・「常盤」(9700トン)・「磐手」(9750トン)など)は、対馬の浅海湾を出港し、7月25日南九州の都井岬沖から室戸崎へ、そして「布良」付近に向かうべしとの訓令を受け、28日正午過ぎに「布良沖」に到着したものの、すでにウラジオ艦隊は北に去っていた。